第七章/chapter4 the absolution Ⅳ
「どわわっ!いったぁ……!」
微睡みの中にあった鈴奈の石室に、慌ただしく響く落下音、苦悶の声。鈴奈は思わず飛び起きる。
気配を感じる。大海ではない。懐かしい御霊が宿る剣を傍らに佩く、穏やかな凪を思わせる魂。
「えっ……進次、くん?」
骨盤が割れたのではないかと疑うほどに、石段でしたたかに尻餅を連打した進次が、鈴奈の横たわる祭壇の閨を見上げる。実に締まりのない登場だ。鈴奈はこの熱量を目視することはできないだろうが、耳の熱さが自覚できるほど、恥ずかしさに顔を赤くする。
「……えへへ、ごめんね。起こしちゃった?」
「え……あ、うん。いえ、いいえ!そうではなくて。どうしてここに?大海はどうしたの?」
鈴奈の声がわずかに震える。これは、警戒だろうか。
無理もない、と進次は割り切りながら、しかしショックを受ける。この数日、鈴奈とは分かり合ってきたつもりでいたが、それも大海という仲介者がいたからであることを突き付けられた。もっとも、あのような言い争いをした後日となれば、当然警戒もされようもの。これは、進次自身が招き寄せた不信でもあるのだと、心に自戒する。
「ああ、実はね」
ズボンに付いた砂埃を払いながら、慎重に鈴奈との間合いを取る。鈴奈の閨からは一間ほど。光苔が通っていない、僅かな一筋の鈴奈の痕跡に、向かい合う。
「鈴奈ちゃん、君は、どうしたい?」
「は……、え?」
それは、
「僕は多分、君の願いを知っている。僕は、それを叶えてあげたい。……どうかな?」
それは、説得と呼ぶには余りにもぶつ切りな言葉。
「そしてそれは、僕の願いにも繋がる。せめて隣にいる誰かの幸せを守りたい。そのためなら、僕は---」
「待って、待て、お待ちなさい。あなたは、何を言っているの?私の願い……?そんなの、どうしてあなたが知っていると言うの?わた、わ、わらわの願いなぞ、どうしてそのようなか細い魂で汲み取れようか?」
鈴奈の酷薄な拒絶を感じる。神たる竜に同情などしようものなら、どれほどの天罰が下るかなんて想像もつかない。しかし、それでも今は。
「わかるともさ。……きっと、このままじゃいけない。そう思っていることくらいは」
「……ダメ。だめダメ駄目だめ!このままじゃいけない?これ以上、ここ以外私たちが生きていける世界なんてない!きっと、壊してしまうわ。きっと、人間たちは許さないわ。きっと、私は-----」
その言葉は、一体誰の吐露だったのか。彼女達はその髪を振り乱しながら拒絶する。否定する。その胸に、今もまだ残る願いを必死に諦めようとする。進次は一歩、また一歩鈴奈に歩み寄る。
「君がなにをそんなに怖がっているのか、僕にはわからない。けど、きっとそれは当然なんだ」
鈴奈の眼帯を外す。彼女の視点まで腰を落として、その両肩を力強く、しかし華奢な彼女の体を壊さないように優しく掴む。
鈴奈の焦点の定まらない縦長の瞳孔が、よりいっそう乱れながら進次の黒曜の瞳を見つめる/睨む。
それは、食うか食われるかのような睨み合いであり、
それは、拒絶と受容のせめぎ合いであり、
「それは、私が人ではないから?」
そしてそれは、目の前の少女が少年に向けた、精一杯の問いだった。
「いや---」
鈴奈の生きてきた人生を思う。彼女はおよそ人らしく生きてきた時間がなかった。神として、この世界の要石として。そんな崇拝を受けてきた半生とは、進次には想像に難い。大海と過ごしてきた日々を加味しても、こうまで頑なになるものだろうか。
しかし進次は知っているのだ。それは、
「本当に分かり合っている人間の方が、少ないよ。だから人間は、語り合う。喧嘩もする。そしてどうしてそうなってしまったのか考える。それに気が付いたら仲直りだってする。そうやって、お互いのことを知っていく、分かり合っていくことが、一緒に生きる意味なんだ。
……と、僕は思ってる」
それは、激烈なほどに鈴奈の心を揺さぶった。例えるならば、悪魔の誘惑。それに似ていながら、彼のちっぽけなくせに真摯な言葉は、鈴奈の背中を押していた。
「……そう、つまり。つまりね?
勝手ばっかり言って、ごめん。まずはそれを伝えて、仲直りしたかった。その上で、鈴奈ちゃんが本当はどう思ってるのか、それを聞かせてほしかったんだ。うん」
光苔ですら眩しく、ホワイトアウトしている筈の鈴奈の視界が更に滲む。この感覚は、何度も味わった生暖かく、簡単に冷たくなってしまう一滴。
「あ……拭いていい?」
その問いからほぼ間髪入れずに進次の手が伸びて、柔らかなタオル地のような感覚が鈴奈の頬を撫でる。
こんな風に、涙が冷たくなってしまう前に拭ってくれた人物は、大海と、もう一人だけだった。そんなヒトが、目の前にもう一人。顔すら分からないけれど、その切なさと喜びが胸に迫り、止めどなく慟哭する。
「私……わたしはっ……。知りたい、知りたいよ。あなたがどんな世界で生きているのかも……譲おじさんが教えてくれた、胸をワクワクさせてくれた本でいっぱいな場所も……太陽が差してるアオゾラってものも……見たいの……見たいの………」
「……うん」
「でも、怖い。外には人間たちがいるわ……。私は、虚獣たちの母だから……きっと、許してくれない。そうなれば私……私……」
「大丈夫。僕が絶対守る。それだけは約束する」
「………………っ」
(違う、違うの。あなたはどこか、勘違いをしている。私が、本当に恐れているのは---)
「僕は、今鈴奈ちゃんが話してくれたことを叶えてあげられる用意がある。ううん、もっとだよ。きっと鈴奈ちゃんが、もっと世界のこと、僕たち人間のことを好きになってくれるようにできる、その覚悟はあるよ。……信じてくれないかな?」
鈴奈が瞳を閉ざして、心を傾ける。
「………………」
ほんの数秒、鈴奈の体感時間においては数刻数時間の沈黙。
「---約束して」
鈴奈が口元に手を当て、耳を寄せるように進次を手招きする。告げられた言葉は、ほんの僅かな約束だった。
「---当たり前だろ。信じてよ」
進次の誓いに、鈴奈が微笑む。その笑みが誰のものであったのか。進次は、考えもしていなかった。