第二章/chapter1 悪夢:始まり
それは、必然と言える長い、長いフラッシュバックだった。
少年は、それが夢だと気付くことなく、追憶する。
あっけなさすぎた別離を。
少年の英雄の最期を。
---幼すぎた、自らの[罪]を。
澤館のローカル線の電車に揺られて、母親の天野蛍と共に祖母のいる風見区へ向かう。流石に夏休みということも手伝い、昼間だが車内には中学生以下の子ども達の姿も目立つ。
まだ齢8歳の頃の少年、天野進次は空のバスケットを抱えながら、祖母の作った野菜を待ちきれない様子でステップを踏む。
「ほら進次。電車の中で踊らないの。危ないでしょ」
蛍が進次の頭をぐりぐりと撫でながら、手すりに掴まらせる。
---ああ、幸せな時間だ。父さんはいないけれど、幸福な、きっと彼女もそうだったに違いない、夏休みの、ちょっとした冒険の一頁---。
風見駅に電車が到着し、人波の中、天野母子も下車する。ブルリと走る悪寒。
「お母さん、トイレ行きたい」
何しろ季節は夏。水分補給は十全にするべきだが、だからこそ冷房の効いた電車内にいたのなら、ソレは早くなるのは道理で。
「え、トイレ?もう…家でちゃんとしてくればよかったのに…。一人でいける?」
蛍の言葉にこくんと頷く。
「じゃあここで、駅の待合室で待ってるから。歩道広いから大丈夫だと思うけど、車に気を付けてね」
わかった、と告げて、一目散に、しかし粗相を犯さないように慎重に走る 。手洗いは駅から一旦出て50メートルほど先の、バス・タクシー乗場と共通の公衆手洗いだ。
よく晴れた夏の日。
ジクジクと鳴く蝉の音は、この街の、夏の風見区中央商店街を暑く、日々の喧騒と入り交じって、進次の足を逸らせた。
どこにでもある日常、取り立てて特筆することのない午後一時が過ぎていくはずだった。
その凶報が、町を包むまでは---。
GRRRRRRR!Uuuuuuu!
『[虚獣]、発生、虚獣、発生 澤館市風見区5丁目 田中時計店付近にて 虚獣発生を確認しました。
住民の皆様は ミトスの指示に従い 落ち着いて 澤館第三防護施設まで 避難してください』
ハッと進次が顔をあげ、慌ててズボンを上げる。その足で、手洗いから飛び出すと、瞬間、遠くから爆発音と、悲鳴が響いた。
「進次!」
足がすくんでいた進次の元へ、蛍が慌てた様子で走り込んでくる。その顔を確認し、腰が抜けたように座り込んでしまう。
「しっかりして!ほら、逃げるよ!」
蛍が進次の腰に喝を入れ、立ち上がらせる。
---本当の凶報は、その直後に訪れた。
GRRRRRRR!Uuuuuuu!
『虚獣、発生!虚獣、発生! 澤館市樹之幹区全域 澤館市全域にて [レベル5]の虚獣発生が確認されました! 住民の皆様は ミトスの指示に従い 至急 最寄りの防護施設 防護地下道へ 避難してください!』
先程より明らかに焦りの乗った放送の声。先程より近くで聞こえる爆発音、そして悲鳴。
[警戒レベル5]。それは、虚獣災害における最高レベルの警告。住民は、直ちに避難しなければ重大な人的被害を受ける、避難命令と言って過言ではないほどの虚獣の大発生。すなわち。
「きゃあああああぁ!」
こうして、どこに虚獣が現れようが不思議はない、ということ。悲鳴はもはや、すぐそこの駅構内から響いた。その直後に、砕ける壁面、歩道を越え、車道まで吹き飛ばされる、軽甲冑姿に「変身」したミトス。そして---。
GGGGi…GyAAAAAA!
「--------。」
進次と蛍は、顔面蒼白になりながら、その異形を見入る。
(なんだ、あれ---。)
現れ立つは鋼を思わせる光沢の鱗に包まれた蜥蜴。
否、蜥蜴などという大きさではない。進次の記憶を辿ったところで説明するなれば、鰐。それに限りなく近く、それでいて鰐とはかけなれた、一本一本が矛を思わせる鋭さの爪を、牙を剥く、恐ろしい竜だった。
「くっ…馬鹿力め!あんた達!今ここには俺しかミトスがいない!コイツは俺が引き受けるから、早く地下避難道に逃げ込んでくれ!」
先ほど車道まで弾き飛ばされたミトスが、一度の跳躍で進次達と鰐の間に立ちはだかり、避難を促す。その声に、恐怖に濡れていた蛍の瞳が生き返る。
「っ!はい!進次、行くよ」
蛍に手を引かれ、おぼつかない足取りで立ち上がり、走り出す。
(あんな怪獣に、勝てるの…?)
一抹の心配に胸を圧迫される進次の背後で、鋼を打つ刃の音が高らかに響く。それに振り替える余裕もなく、未だ町に轟き続ける警報に焦燥しながら、命からがら逃げ出した。
地下10メートルに存在する、幅15メートル程の避難通路を、ミトス、そして澤館の消防隊員の指示に従い、人の列が立ち止まることなく歩き続ける。
その列に、進次と蛍もまた、足を止めずに防護施設を目指し歩き続ける。
「もうすぐ、もうすぐだからね」
蛍が進次の手を引きながら、どうにか安心させようと励ましかける。進次の心には、2つ、足取りを鈍らせる懸念が残っていた。
「ねえ、おばあちゃんは大丈夫かな?お父さんも、たたかってるんだよね?大丈夫かな…」
進次を見つめる蛍の瞳が、動揺に揺れ動く。それは至極当然な懸念だった。
なにしろ進次は、先ほどの駅で、生まれて初めて虚獣を、その実物を目の当たりにしたのだから。
あれは、空想に現れる怪獣そのものだった。
「[虚]空に現れる[獣]」、故に虚獣と呼ばれる、神出鬼没の侵略者。
あんなものが目の前に突然現れる、そんな現象が、この街の全域で起こるなら、彼に近しい人物は無事だろうか。そう懸念せずにはいられなかった。
「大丈夫」
蛍の言葉に、根拠はないが。
「きっと、防護施設で会えるから」
それでも今は、我が子の懸念を見ない振りをして歩き続ける他に、選択肢はなかった。
古い本で読んだ、酒池肉林という話を思い出す。正しい意味では、林の中に虎と人間を放って、その逃亡劇を楽しむ拷問遊戯なのだとか。
無論、虚獣はただの[災害]だ。少なくとも進次をはじめとした一般人はそう教えられている。災害に、人間を蹂躙する楽しみなど、ましてやそれを楽しむ第三者など介在するはずもないのだが、
(まるで、うさぎ小屋に狼の群れが入れられたみたいだ)
そう進次が錯覚するほどに、この状況は、混沌を極め、第三者の悪意なくして起こり得ないのではないかと、疑念すら抱いていた。
足早に歩き続けて10分、距離にして1.5キロほど。ついにあと10メートルと経たない先に、防護施設の重厚な入り口が見えてきた。
ここまでの地下避難通路の途中、1人、また1人と地下避難通路に逃げ込み、防護施設に近付くほどにその人数は増えていたことから、流石に混雑を極める渋滞状態となっていた。
「ちょっと、押すなよ」
「やっと着いた…」
「うえーん!もう歩けないよぉ!」
ここまでたどり着いた住民達は、皆おおよその安堵と油断に浸りきっていた。
あと少し。あと100人ほど待てば、今度は自分が防護施設に入れるのだと。
「虚獣だ!逃げろー!」
しかし、安息は打ち破られるが定めか。人々の精神は人肌ほどの安堵から瞬時に凍りつき、そして恐怖に沸き立つ。それはまるで、常温の水にドライアイスを投下したかのように。
状況を理解できていたのは、今まさに防護施設間際の避難道から逃げ込んできた男性と、その入り口の警護をしていたミトスだけだろう。
「ミトスがやられた!ダメだ、逃げるしかない!逃げろ!逃げろ!」
防護施設待機列の先頭集団は防護施設に押し合い、まだそこに至らない者達は、元々来た道へとへし合い、悲鳴が反響する。
嗚呼、こうなっては防護施設入り口の職員やミトスの指示など通るはずがない。だって---。
『逃げなければ、喰われる』
民衆の心は、そんな絶体絶命に冷たく沸き上がっていたのだから。
「あ、ああ……あ」
蛍が進次の手を握りしめながら、立ち尽くす。この現実を前にして、逃げ出す者もあれば、こうして動くことすら儘ならなくなる者があるのも、また必定だろうか。
しかし、それも束の間。通路側に逃げ出す人の波に飲まれ、我に帰った頃には遅かった。
「…!進次!」
ぶつかり、雪崩れる人の波に巻かれ、蛍と進次の手が離れる。
「おかあ、さん…!」
そのまま来た道を辿るように、蛍が流され、進次は走る人々の脚に蹂躙されながら、その場を動けなくなる。
もはや避けられない別断。その最後の瞬間に、蛍が精一杯に叫ぶ。
「誰か‼その子を‼進次だけでも‼お願い‼」
かき消されるだけの、虚しい抵抗。だが、それでも。それを聞き届けた人物が、そこに在った。
「-----!」
走った。通路側に押し流される波を、まだ幼い故の機敏さで全力で縫いながら。
「立て!」
うずくまっていた進次が、その声に顔を上げる。
そこに立ち、手を伸ばしていたのは、そう年は離れていないだろうが、確かに認識できる上級生の少年。
髪はまだ黒く、少年らしいスポーツ刈り、琥珀の瞳。
「-----」
「早く!」
少年の逸る言葉に、進次の魂が絶望から蘇る。その手を取り、目指すのは、
「今なら人が捌けてる!突っ込むぞ!」
「え!?」
少年が目指したのは、残り10メートル先の防護施設。それはすなわち、たった今激闘を繰り広げる、防護施設のミトスと虚獣の戦線を横切ることに他ならない。
「馬鹿、来るな!」
ミトスの青年が叫ぶ。少年は立ち止まれないと言わんばかりに
「うわああああぁぁ!」
恐怖をかき消すように咆哮し、進次の手を引きながら、走る。疾る。駆る。
(よし、抜けた!)
ミトスの刃と鰐の[虚獣]の牙が交差する刹那を駆け抜け、少年が防護施設のシャッターまで5メートルと迫る。
防護施設の門番は、慌ててシャッターを下ろすボタンを停止させ、
「ずあああぁぁ!」
少年が、進次を伴いスライディング、進次が手を引かれながら転び混む形でヘッドスライディングを敢行。二人は、幅3メートルの分厚い鋼鉄のシャッターを見事滑り込み、防護施設にたどり着いた。
「ふう、間一髪」
少年が額に滲ませた脂汗を拭いながら、進次に振り替える。進次は、顔を激しく殴打し、そして擦り付けたことで頬は赤く腫れ、擦り傷からは血が滲んでいた。
「いたた…いたいよぉ…」
進次が半べそをかきながら顔を押さえ、うずくまる。少年が呆れたように息を吐きながら、その両肩を掴み
「男だろ、我慢する!命があるだけ百人力だぜ」
少し、語彙がおかしな台詞回しで進次を励ます。
その時になってようやく、進次がその少年が自分に為した偉業を認識する。
誰も連れていってくれなかった。誰も助けてくれなかった。
そんな中でも、この少年はただ一人、もっと遠くへ逃げられた事実を擲ってまで、自分を助けてくれたのだ。
「……ぐすっ。うん、ありがとう」
ならば、せめて進次に示せる精一杯の感謝を。擦り傷だらけの涙でぐしゃぐしゃの進次が告げる。少年が、進次の言葉に安堵したように腰を抜かす。きっと、彼の人生において初めてだったであろう、人命救助の瞬間。それを見事やり遂げた実感を味わいながら、誇らしげに微笑む。
「おれ、神山焔。お前は?」
琥珀の瞳の少年が、進次に右手を差しのべる。
「ぼく、進次。天野進次、です」