第六章/chapter7 the absolution Ⅲ
「だめよ。それはだめ」
思いがけないその制止に、進次は当惑した。鈴奈はそれが当然と弁えていたように小さく息を吐きながら、うつむいている。
「そんな……ヒロ姉だって可哀想だと思わないの?あんなに、あんなに鈴奈ちゃんが不当な扱いを受けてたことを怒ってたじゃないか」
進次が食い下がる。無論、今の議題は鈴奈を龍凪大社から連れ出すことに関してだ。
大海の懸念するところは理解できる。鈴奈はどうあれ界魂、この世界の根幹にある、虚獣と人との諍いの中心にいるのだ。当然、彼女の存在はトップシークレットであることは想像に難くない。
しかし、しかしだ。逆を返せば、鈴奈がそのような存在であることは、恐らく誰も知らないはずだ。少なくとも、塔機関の関係者に見つからない限りは。
「だいたい、あなた男の子でしょう?鈴奈の服を買ったところで、目の見えない鈴奈を誰が着替えさせるの?誰が介助するのよ?あんまりにも浅はかだわ」
正論を突き付けられ、椅子からたじろぎ後ろに倒れそうになる。しかし、ここで引くわけにはいかない。何しろ鈴奈は、進次の一番新しい隣人だ。ならば、親睦を深められるこの機会を逃すわけにはいかない。それに、
(界魂だかなんだかは知らないけど、父さんが言っていたんだ。唯一人の隣人として向き合えって。なら---)
「……大丈夫だよ。助っ人に心当たりがあるんだ。それに、それにさ。鈴奈ちゃんがこのまま、閉じきった世界で生き続けるのは無理があるよ。あの地下室は、あまりにも狭すぎるし、静かすぎるし、暗すぎる。
その、うまく言えないんだけど、僕は知ってほしいんだ。暑くて爽やかな風や、いろんな人の喧騒の声、みんな生きてるって感じられる、この街のことをさ」
進次の語らいに目を見張りながら、大海が息を呑む。その黒褐色の眼にわずかに赤みを帯ながら、一直線に進次を睨み付ける。
それは一縷の感心であり、確かな怒りであり、そして一抹の不安を湛えた熱視線。
「進次くん、でもそれはね、無理なのよ」
投げ掛けられた、あまりにも真剣な否定。それがわかっていながら進次は食い下がる。もはや意固地になっていることを理解できていない。進次の中で、知らず知らずの内に形成されていた歪み。
進次は、譲の言葉に囚われていた。
「……どうして?」
「わかるでしょう!?鈴奈は、もう鈴奈だけの体じゃないの!とても人前には立ち返れない臆病な鈴奈も、私たちを糧としか考えていない鈴奈も!……そんな三竦みの、とても不安定な鈴奈の心を、簡単に知った気になって揺さぶらないで。10年前と同じことになっていいの!?」
大海の荒げた声にびくりと、進次と鈴奈が身をすくませる。その眼球はより一層赤さを増して、進次を睨んだ。
何が起こるかわからない。それは決して、鈴奈の介助などという話だけではない。
どうあれ、鈴奈が虚獣たちを束ねる母なる悪逆であることに変わりはない。それが三竦みの魂に翻弄されているのならばなおのこと。
---もしかしたら、鈴奈の殺意が牙を向くかもしれない
---もしかしたら、鈴奈の恐怖が人間を排除しようとするかもしれない。
---もしかしたら、鈴奈の嗜虐が人々を蹂躙するかもしれない。
「……鈴奈ちゃんは」
そこに至って進次は初めて、その疑問に突き当たった。
果たして、鈴奈は虚獣の動向を制御できているのだろうか、と。
「……鈴奈ちゃんは、虚獣を抑えることはできないの?そもそも虚獣は、鈴奈ちゃん。君の意思で現れているの?」
「………………」
進次が鈴奈の顔を覗き込む。うつむき、黙りこくるその目隠し仮面は、一体何を思うのか。呼吸を狂わせ乱していく、その問いかけ。まるでそれは、生け贄を捧げても報われない民草と、救いの手を差し伸べられない神の押し問答のような沈黙。
進次の中での答えはこうだ。都合のよい人間らしい浅はかな思考回路だ。こうであってほしい、という願望だ。
鈴奈は、塔機関から虚獣の出現を強いられている。なにしろ世界の魂などという想像もつかないものを降霊させる集団だ。その折に、使い魔のように何らかの命令を付与したのではないか……。
何のためにそんなことをしたのかは知らない。一つ言えることは、塔機関が世界に対する裏切り者だ、という先入観だけだ。
「それが制御できていれば、誰も傷付かなかったわ。10年前の災害は、起きなかったのよ」
大海がくたびれたように嘆く。進次は押し黙るしかできなかった。
どうあれ、鈴奈は虚獣の動向を制御はできない。大海はそう告げた。鈴奈はそれを肯定するように俯いている。
「……わかったよ」
進次が席を立つ。その胸に渦巻く熱さを飲み込みながら。
こんなにも何かを納得できない自分は初めてだ。結局大海のやっていることは、宗崎の一族と変わらない。虚獣を操ることのできない鈴奈を世間に出すわけにはいかない。それは同意できるが、そこから一歩を踏み出せないのでは鈴奈は人として救えない。大海自身、それがわからないほど浅はかではないはずだ。だからこそ、大海は進次を鈴奈に引き合わせたはずなんだ。
私では鈴奈は救えない。力を貸してほしい、と。
(でも、どうすればいい?どうすれば、彼女を助けられる?)
就寝の挨拶すら忘れたまま、進次は食堂を後にする。
さて、少年の願いの行方は、いかに。