第六章/chapter3 悪意なき---
暑い陽光と、その声に意識を引き戻され、そうして目覚める。
「あ、れ?鈴奈ちゃん」
「……おはよう。どうしてこんな所に倒れていたの?」
ああ、そうか。状況を目視で確認できない鈴奈にとっては、横たわる体≒倒れているように思えたのか。腕時計を確認する。時刻は8時を回る頃。道理で陽光の暑さは苛烈になっているはずだ。
「ごめん、昨日眠れなくてさ。仮眠を取ってたんだ」
銀の眼鏡を拾い上げ、視界を明瞭にする。鈴奈の白い肌を伝う汗はしずしずと掛襟に染みて、より一層熱を伴うように見える。
「鈴奈ちゃん、その格好暑くないの?」
はたと考えたこともなかったかのように、鈴奈が首を傾げる。暑いか暑くないかと言われれば、それは、
「そういえば、暑い、かも」
やっぱり、と進次が苦笑いながら、彼女から視線を切る。明晰に見た、先程の夢のことを思っていた。
「向き合うんだ。神と人なんかじゃない。唯一人の、お前の守りたい隣人として」
あれは、夢だったのだろうか。それにしては、こんなにも譲の言葉を明確に覚えているものだろうか。縁側に立て掛けられた、譲の亡骸とも言える蓮剣を、そっと握りしめながら譲の夢を思う。
いや、重要なのはそんなことではない。進次が思い返す。
(思えば、鈴奈ちゃんや宗崎家と父さんの因縁、そんな話しか聞いてこなかった気がする。いや、それが決して無駄だったとは言わないけど、鈴奈ちゃんの、鈴奈ちゃん自身の話は、在り方は、僕はまだなんにも知らないんだ)
秒数にして、5秒ほどの沈黙。ミンミンゼミやアブラゼミのさざめきが響く、龍凪大社に面する宗崎家の中庭。
きっと、進次の体感5秒は、五感のうち一つを封じた鈴奈にとってもっと悠久なものだったに違いない。それが昨晩、とても良い別離とは言えなかった、あの言葉を紡いだ翌日となればなおのこと。
「あの、進次くん?昨日は私がごめんなさい。困らせてしまいましたね……」
おずおずと、鈴奈が進次に詫びる。
「いや、いいんだ。僕こそ、昨日は気安く触ってごめんね。驚かせちゃったよね」
進次もまた、非礼を陳謝しながら、頭を下げる。鈴奈には見えていないだろうが、そういう問題ではない、と自罰する。
しばし、二人の間を再び沈黙が支配する。騒々しい虫の音はこの沈黙を引き立てるように、クレッシェンドを体現する。
どう切り出したものだろう。譲のゆめうつつのあの言葉が脳裏を支配して、昨日まで自然体で共に過ごせたはずの鈴奈への接し方に、余計な思考を巡らせる。
「………………」
鈴奈の方向へ顧みる。鈴奈はその掛襟を緩め、襦袢を扇いでいた。
「……そっか。うん、そうだよな」
今の鈴奈の行動で一つ、閃いたことがある。このような熱帯気候にあのような暑苦しい服装というのは酷だ。ならば。
「鈴奈ちゃん、洋服、一緒に買いに行かない?」
進次の唐突な提案に、鈴奈が驚愕の表情を浮かべる。顔の半分が目隠しに覆われていたが、あれは驚愕に違いないと進次は予想する。
考えてみればおかしな話だったのだ。鈴奈を神と縛る宗崎家の一派はもういない。鈴奈があのような穴蔵に押し込められている理由は、ましてこのような巫女装束に身を包む必要は、どこにもないと言うのに。
であれば、そのくらいのプレゼントは許されるのではないか。そもそもこの龍凪大社以外の世界を知らない鈴奈に、食べたことのない美味、纏ったことのない装い、触れたことのない世界を知らせる、いい機会かもしれない。
「え……でも私、外になんて出たことないもの。どうすればいいのか、分からないわ。……そもそも、こんな見えない目じゃ歩き回ることもできないし……」
「大丈夫。車椅子って知ってる?椅子に大きな車輪が着いててさ、座ったまま移動できる便利な物があるんだ」
幸い、進次にはその手の物資には心当たりがある。心の森だ。10年前の災害で足を失った義兄弟が乗っていた車椅子が残っていたこと、それに乗って爆走していた義兄弟を叱った記憶があることを覚えていた。実に図々しいが、レンタル代と共に掛け合えば貸してもらえるだろう。
「でも、私……お金なんて」
「そういう心配はしなくていいの!その、納得したいから。そう!僕が納得したいから出すお金なんだから。幸い欲しいものもとんとないから、少しは蓄えがあるんだよ?」
進次が少々心許なさそうに胸を叩く。精一杯の強がりだ。
「でも、でも………!」
鈴奈が狼狽え始める。もう一押しだろうか。
「それにさ、鈴奈ちゃん、憧れてたんでしょ?外の世界に。名前のない旅人が渡り歩いてきた、この世界にさ」
確信をもって、交差しない視線を合わせようと、鈴奈の両肩を掴む。そうでなければ説明がつかない。譲に旅人の物語をせがんでいた、鈴奈の弾けるような笑顔に。
鈴奈の息を飲んだ息づかいが耳朶に届くほど、その顔を見つめ合う。
「どうして、そのことを……?」
鈴奈に問われて、その会話の矛盾に気付く。いけない。アレは飽くまで進次が見た夢の話だ。しかし鈴奈の証言で、アレがただの夢でなかったことも立証された。
(アレは、きっと-----)
「いや、なんでもないよ。ともかく!涼しい服を着てさ、美味しいものを食べて、そんな休日を一緒に過ごしたいなって、そう思ったんだ。………どう?」
進次が必死にはぐらかそうと話題を戻す。鈴奈の表情はどこか固く、ともすればポーカーフェイスのようにその口を噤み、一刻、
「大海と、大海と相談してみましょう?私の身の回りの世話をしてくれているのは、大海だから。大海が都合を付けられなければ、自ずと無理になるわ」
消極的な答えだが、鈴奈なりに最大限の譲歩をしてくれたのだろう。進次は小さくガッツポーズをしながら、
「よしっ!じゃあヒロ姉を納得させる、最強の文句を考えておくよ。楽しみにしててね。あ、誤解のないように、不利な判決にならないように言っておくけど、ヒロ姉のご飯が美味しくないって言ったんじゃないからね!」
そう鈴奈に告げて、玄関へと急ぐ。その足音が去るのを聞きながら、鈴奈が一息、胸に去来した不安を吐き出す。
進次には気付かれずに済んだようだ。自分がどれほどソレを待ち望み、今もまた、唇を噛み締めて胸に迫る思いを圧し殺していたのかを。