第六章/chapter1 遭遇
「ああっ!せあっ!」
一際強く砂利を蹴散らし、進次が蓮剣を振るう。
未熟。あまりに未熟。進次の心は煩悩の中に居た。
「はあっ……ふうっ……畜生っ…………」
理由は言うべくもない。迷っていたのだ。果たして、鈴奈を守ることが本当に人々の幸せになるのか。鈴奈の内には、紛れもなく悪が潜んでいる。誰にでもある精神の二面性の話ではない。外部から植え付けられた悪竜の話だ。
「---その言葉、嘘はあるまいな?」
あの言葉が、あたかも鈴奈を盾に卑しく生き延びようとする悪の言葉が頭から離れず、懊悩と眠れない夜を過ごした。こんな夜明けは、澤館虚獣大災害が忘れられなかった幼いあの日々のようだ。
納刀し、脳内麻薬でパンクしかけな頭をうなだれ、昨夜の縁側に乱暴に腰を落とす。
そも、幸せとはなんだ?進次は一体、何を守ろうとしている?分からない、判らない、解らない。思考は既に善悪の分別を見失い、精神は個と全の判断を見誤り、魂は進次自身の究解を投げ出した。
(だってそうだろう?目の前の誰かの幸せを守れない奴が、それ以外の人々の幸せを守れるわけがない)
そんな当たり前を、ゆっくり襲い来る疲労が霞ませていく。目蓋の帳を落とす重りのように、進次の意識を奪っていく。
無理もない。進次は自分の日課の剣、日頃の神山相談所の激務に加えて、澤館ミトス大会に向けた訓練と、この一週間は控えめに言っても濃密だったのだ。それに加えて眠れなかった昨晩を鑑みれば、その睡魔は当然と言えた。
(待て………せめて汗を……)
濡れタオルで首回り、顔回りの汗だけ拭い、寝苦しさを取り払う。眼鏡の蓋を外すと、さらに霞む視界に意識を揮発させたように、速やかに眠りに落ちた。
こんな時に、どうしてそんな夢を見たのかわからない。否、あるいは必然だったのかもしれない。それは確かな追憶のように明白に、進次の魂に訴えかける。そして語りかけてくる。まるで、悩める子を導くかのように---。
「やあ、鈴奈ちゃん。元気にしていたかな?」
背筋を冷たく通るその衝撃。進次は、鈴奈の眠る石室に、その男の背中を見た。
「じょう…おじさん……?」
硬いござの上で眠っていた、今より幾分幼げな、そして触れれば壊れそうな体躯の鈴奈が、自分の体を起こすのもやっとな鈴奈が、まるで待っていたように微笑む。
「譲おじさん、いつ見つかるかもわからないです。……そばに居てあげたい気持ちは嬉しいですけど、気は抜かないでくださいね」
不安そうに階段を見上げながら語るのは、これまた今の印象とは全く異なる、長身の少女。髪は短く、いつも進次に向ける柔和な笑顔が嘘のように、眉間に皺をよせる、おそらく大海。
「ああ、いつもすまないね。
さあ、鈴奈ちゃん。今日はとっておきのご本を持ってきたんだ。聞いてくれるかい?」
「相も変わらず、また人間賛歌のお話?ええ、聞かせてください」
それは、進次もよく知るなんてことはない名もない旅人の物語。奴隷から始まった彼の物語を彩った、優しい令嬢のお話。
さすがに多くの読み聞かせをしてきた、司書を生業とする譲の語り部は、雄弁と旅人の始まりを語っていく。その語りに、胸を踊らせるように微笑み、続きをせがむ鈴奈の姿を見る。
進次は、そんな懐かしい/忘れたはずの譲の語り部を聞きながら、ただただ、その魂を癒していた。
(ああ、そうか。父さんはいつだってそうだった。例えば、目の前で泣いている誰かに、こうしてあたたかな賛歌を捧げて手を差しのべるような。そんな---)
譲が本を閉じる。膝の上に座らせていた鈴奈をすり抜けて、立ち上がり、
「---え?」
進次を、紛れもなく進次を見つめながら微笑み、まるで昨日までずっと傍らで見ていたかのように、
「だいぶ苦しんでいるな、進次」
そんな、衝撃的な挨拶を交わした。