第五章/chapter9 the absolution Ⅱ
少し遅めの夕食を終え、夜風の吹く中庭に、進次が月明かりを頼りに今朝方踏み荒らした砂利を均してゆく。いずれ明日の朝には再び踏み荒らすことになるのだが、重要なのは、きっとその無意味を説くことではない。こうして、足を踏みしめることを許された大地に感謝し、だからこそ丹念に整備することによって、再び踏み荒らす無礼を許容してもらうことにこそ、意味がある。
(なんて考える辺り、八百万に魂が在る、って考え?僕も日本人なんだなって思うよな)
一通り均し終えた中庭、そこに面する縁側に腰掛け、麦茶を一口。
最近はよく晴れている。夏の入道雲はその偉容をくらませ、夕立雨などどこ吹く風と言ったように、雨神とも呼ばれる竜凪の竜神は、この澤館の渇きを見過ごしている。
「少し、隣いい?」
声に見上げる。そこには普段の神官姿巫女姿からラフなスウェット姿に着替えた大海が氷水に浸かったトマトと一献、御神酒を漆塗りの酒器に携えながら、進次を見下ろしていた。
「おっ、いいね。そのトマト、僕の分もある?」
「むしろこれは進ちゃん用よ。御神酒はダメよ?」
進次が大海の座る場所を空けながら、渡されたタオルで手を拭く。大海はゆったりと縁側からその長い脚をサンダルに伸ばしながら、酒器に酌まれた透き通る御神酒で喉を潤す。そして二人揃って、氷水に冷やされた夏の赤い珠を、一かぶり。
「んー、うまい。歯に染みるくらい冷たくて、うまいっ」
「やだ、進ちゃんってば知覚過敏?ちゃんとケアしなくちゃダメよ」
手短に返事をしながら、もう一かぶり。果汁が零れないように吸い出し、酸味と甘味を味わいながら咀嚼する。
こうして大海と縁側に腰掛けながら夜風を感じ、トマトを食べることがここ数年の進次の風物詩の一つだ。今年は新たに知った天野と宗崎の繋がりを噛み締める、またひと味違ったではあるが。
「ねえ、ヒロ姉?」
「うん?なに?」
「ここに、宗崎家に来ていた僕の父さん、天野譲はさ、どんな人だったの?思えば僕ってさ、僕の父親としての父さんしか知らないから、他の人から見た父さんって気になって。ヒロ姉の主観でいいから聞かせてほしいな」
大海が酒器の水面に浮かぶ七分の月を揺らしながら、そのアルコールに耽るようにほんの少し思索する。その長い睫毛の奥から注がれる視線は、まるで水面に溺れる月をその心に見立てているかのように、静かに波紋を眺めていた。
「どんな人だったか、と言われるとアレね。私は進ちゃんの父親としての譲おじさんは知らないけど、そうね。進ちゃんの心をこんな風に穏やかに育てた人だもの。進ちゃんの父親像としての譲おじさんと、そう変わらなかったと思うわ。
優しかったけれど、それは決して妥協なんかじゃない人。鈴奈にただの隣人として向き合い、宗崎の妄執に立ち向かう。そんな、どんなことにも背中を向けない人だったのは間違いないわ」
だんだんに揺らす酒器を止め、御神酒が止水したところを呷る。しっとりと月光を湛える赤漆の酒器を置きながら、トマトを控えめに噛り、やや愛想の尽きたようにため息を一つ。
「親の心子知らず、みたいなものだけどね。それでも私は、譲おじさんを受け入れなかった私の家族にはうんざりしていたの。鈴奈を、あの子を神なんて崇めておよそ人間扱いしなかった家族たちをね。
与えられる食事はせいぜい神撰レベル。当然十分な量じゃないし、あの子は社会にすら出されなかった。学校にも行っていないし、何より見えるはずの瞳をずっと塞がれて、自分の住んでいるこの家が、澤館が、世界がどんな姿をしているかも知らない。そうやって、純粋培養されていたの。神として、界魂として、どうか虚獣を治める制御装置たれ、とね」
一息に、揮発したアルコールに怒気という熱を込めながら吐き出す大海は、その顔に怒りを滲ませながら、均されたばかりでかすかに紋様を残す砂利を見下ろす。
「---だからかしらね。閉じきっていた宗崎に踏み込んだ譲おじさんに、最初は私ですら戸惑ったわ。でも---」
「あの人は、そんな私たちの戸惑いを飛び越えて来た。私は、界魂。ええ、あなたたち人類に仇為す運命の女として、その在り方を決定付けられかけていた、そんな時だったから」
進次と大海の体が、投げ掛けられたその登場に驚き、びくりと振り替える。畳を擦る絹と、のしのしと軋ませる四肢の音。いつの間にか、鈴奈が大海の後を追い、ここまでたどり着いていたらしい。
「あら、お腹一杯になって眠っちゃったと思ってたけど。起こしちゃった?」
「そうね、私の寝ていた座敷の前を通ったでしょう?御神酒のいい匂いがして、これは一献ひっかけるのかな、って付いてきたのよ」
鈴奈がくすくすと微笑みながら、匂いの出所である酒器に這い寄り、鼻を利かせる。その酒気の残り香だけでも、恍惚と頬を赤くする鈴奈をぽかんとしながら進次が眺めていたが、合点がいった。
そういえば鈴奈はあの体格だが、既に成人しているのであったし、神撰を捧げられていた、と言っていたか。ならば、御神酒に慣れ親しんでいたのも納得できる。もっとも、それまでは未成年者だったことは、言うだけ野暮だろうか。
「鈴奈ちゃん、もしかしてお酒弱いね?」
進次に言い当てられ、鈴奈がはにかみながら緋袴を縁側に投げ出す。ぱたぱたと宙を蹴る、白く、小さな足を改めて見て、その時になって改めて進次が実感する。
なるほど、確かに十分な栄養が与えられていなかったのか、それでも大海の献身で健康体手前までは持ち直した所はあるのだろうが。確かに、その躰躯はあまりにも弱々しく、矮小に過ぎる。見ていて、痛々しいほどに。
「あとは、大海の言っていた通り。きっと、進次くんの知っている譲おじさんと、大差はなかったと思うわ」
鈴奈の言葉に、その細い足下から鈴奈の顔に視線を戻す。その皮革の帳に包まれた瞳は、一体何を思っていたのか。一筋の涙が零れ、頬を伝いながら微笑んでいた。
「------」
体が勝手に動いていた。進次の右手は、鈴奈の涙が伝う頬をそっと拭う。その接触に驚いたように、鈴奈が進次の方向を見上げる。
「あ……ごめん」
しまった、と進次がばつが悪そうに右手を引っ込めながら、気休めにだんだんと外気と掌に温められたトマトをかじり、いたたまれなさに苛まれる。
何故か、そうしなければいけないと感じはしたが、鈴奈も一人の婦人だ。気安く触れていいものでも、まして涙の訳も知らずに同情することもしていいものではないだろう。
立ち上がる。食い逃げ、聞き逃げのようで気は引けるが、こうして無言の圧をかけられるのもいたたまれない。
「ヒロ姉、トマトごちそうさま。---おやすみ」
自然体を装いゆっくり、しかし一刻も早くここを離れたい後ろめたさに急いで、せっかく整えた砂利を踏む。そんな姿が最も白々しいと気付かぬままに。
鈴奈が込み上げる思いを形にしようと、必死に言葉を探す。この胸にある、いつか訪れるその恐怖を救ってくれるかもしれない「誰か」を繋ぎ止めるように。溺れかけの心が、浮き木を探し、水を掻くかのように。
「怖い夢を見たの!」
鈴奈の叫ぶに至らないその呼び止めに、足を止める。
「沢山のヒト、そうヒトに。『お前は生け贄だ』って、そうやって殺される夢……」
「…………っ」
「進次くんは、あなたは。そんな時、どうする……?」
「………守るよ、僕なら。誰かを生け贄に、なんて切り捨てるのは、違う。みんな、みんなが幸せじゃなきゃいけないんだ。………そうでなきゃ意味がないんだ」
振りかえらなかった。振りかえれなかった。それでいいと、喉元に詰まる息を呑み殺す。それこそが自分の生きる意味だと、その誓いを、もう一度心に握り締める。
「---その言葉、嘘はあるまいな?」
意地の悪い、狡猾な声色。足を踏みとどめ、振りかえりそうになる。
そうやって、ようやく止まった足が再び歩き始める。まるで、刃を握り掌から血を流すような葛藤。くすくすと響く悪竜の嗤い声。諌める大海の声。
さて、少年の誓いは、その願いは、本当に正しいのだろうか。