第四章/chapter11 一人/独り?
夜が来た。進次は龍凪大社からほど近い、まだ無人の運動公園で暇をもて余しながら、朱の色を仄めかす空に、今日直面した途方もない真実を呟いてみる。
「世界の心臓、界魂……か」
冷静に考えてみれば、ひどく現実味のない真実を知った気がする。いや、虚獣という怪異が蔓延るこの世界、それくらいの突拍子のない話は、何を今さらと断じて納得することは簡単なのだが、しかし
(虚獣の識別名として、蠍尾竜や狂獅犬、そういった彼女の子供たちの名前は前からあった。でも、だとしたら)
塔機関は、相手がティアマトなる神であることを知っていたことになる。その上で、さらにそこに二柱の竜を呼び寄せた……なんのために?
決まっている。 斃すためだ。そう彼女自身が言っていた。だが仮に、斃してそのあとどうする?その身を裂いて新たな天地創造をする?それとも単に、その肉を謝肉として人類全員で食べる?
---そんな神の神業を、たかが人間にできるのか?
「っ……」
内臓がひっくり返り吐き出しそうな不快感。馬鹿げている。いづれにしても、そんな非業の運命をあんなに小さな子どもに押し付けるなんて、間違っている。少なくともそれだけは、進次の今日抱いた偽りのない本心だった。
「おや、君は確か……」
不意に背後から掛けられた声にぎょっとしながら、進次が振り替える。そこにいたのは、この澤館のミトス達を束ねる長。その細腕のどこにそんな力があるのか、左腕一本で見るも恐ろしい大太刀を引っ提げ、その右腕の神業たる抜刀術で虚獣を屠る、澤館ミトス隊隊長・矢崎綾が丁度運動公園に現れた所だった。
「隊長!お、お疲れ様です!」
進次が姿勢をただし、緊張したように綾に90°のお辞儀をする。危ない。何気なく呟いた一言だったが、大海と鈴奈から厳重に口止めされていた、その単語を呟いたのだ。それを今他人に、まして虚獣と敵対関係にあるミトス隊の誰かに聞かれるわけにはいかない。
「ああ、お疲れ。それから、あまり畏まらなくていい。俺の事は、親しみを込めてリョウさんと呼んでくれ」
「綾さん、ですか。はあ」
進次が腑抜けたように綾から差し出された右手と握手し、さらに毒気を抜かれる。どうやら進次の呟きを聞いていたわけではなさそうだと、一先ず胸を撫で下ろす。
「君、確かアレだろ?今季入隊者の中で最初に虚獣と遭遇して、勝ったとか。天野くん……だったか」
綾が感心するように、その下顎を指で撫でながら、進次をまじまじと見つめる。深い紺の瞳が、擽るように進次の顔と、体つきを撫でて、進次は身動ぎしそうなむず痒さを覚える。
「ふむ、体幹をしっかり鍛えてるな。くわえて左腰の剣に対して、体重の掛け方もゆったりとして、実に自然体だ。君、昨日今日剣を始めたわけじゃないな?」
綾はどうやら今の一瞥で進次の剣の経歴を見抜いたらしい。さすがに隊長職、隊員の個性や癖、特長を見出だす観察眼は本物のようだと進次が感心する。
「はい、一応は。クリウス先生……班長の下で、10年ほど」
「クリウス!?あいつの出鱈目な剣を10年もか!ほほう……それはクセが強そうだ。なんのために……なんて質問は野暮なんだろうな、きっと」
綾が進次に問おうとしたことは、きっと、心持ちの話なのだろう。問い掛けられた以上は、無視するのも失礼だろう。別段隠すような恥ずべきものでもないはずだ。
「あはは…確かにクリウス先生……班長の剣は無茶苦茶ですけど。でも、班長は班長なりの、一本通った道を教えてくれたんですよ?」
「ほう……それはどんな道だ?」
進次の思いがけない応酬に、綾が試すように再び問いを投げる。進次は抱いてきた数少ない哲学を、惜しげもなく語る。
「クリウス先生の、僕の剣は、たった一つだけですけど、守るための剣です。
それは、隣にいてくれる誰かを、そしてまたその隣にいる誰かの、そんな人達の幸せを守るための道なんです。
……僕には、きっとそれくらいしかできないから。僕は、この世界の幸せを守りたかった誰かのために、きっと剣を取ったんだと、そう思っています」
誇るには矮小な願い、日々の中に淘汰されそうな、当たり前を守ること。
それでも進次は、胸を張る。綾はそんな進次を、どう見つめていたのか。
「そうか。なかなか、困難な道だな。それは、君の人生を誰かに、世界に捧げるかのような生き方だぞ。……きっと、君のことを食い潰そうとする悪人も現れるだろう。君が望まなくとも、君がそれでもいいと言おうとだ」
綾の瞳は、暗い色を宿しながら、進次を射抜く。それは、もうここにはいない誰かに思いを重ねているような、告解のような忠告だった。
その綾の瞳に、どれほどの祈りと悔恨が込められていたのか、進次には知るよしもない。ただ、そんな眼をさせてしまった闇を払い除けるように、見つめ返し、
「きっと、大丈夫ですよ。そんなに大がかりな幸せを抱えられるほど、僕自身の器が大きくないことも知ってますから。
だから一先ず、目の前にある幸せだけは、きっちり放さないようにします!」
進次の黒曜の瞳に、未来を疑わないいたいけな光を見る。このような目で見られては、降参だ。しかし、せめてその焦点が定まっていないことだけは、教えておこう。
「そうか。いい眼をしている。なら、一つだけ忠告しておこう。
幸せを守る、それはいい。だが決して、目の前にある今の幸せだけではいけないぞ」
「えっ」
「君がどんな経緯を経てきたのか、どんな人生を歩んでその哲学を勝ち取ったのかは、俺は知らない。しかし、君が今幸せだと感じられるその思いは、連綿と受け継がれ、君に注がれてきたものだ。バトンと同じだよ。
その取り扱いには、注意するんだ。たった一人で走り続けられる人間は、いないんだからな」
綾の瞳が切られ、進次が呆然とその顔を見つめる。その言葉に、どれほどの思いが、祈りが込められていたのか。
進次は歯切れよく応えることもできず、ただ綾の横顔を見つめていた。そんな矢先、
「綾(あ~や)ちゃん、お疲れちゃ~ん!」
綾にもたれ掛かりながら、しかし彼のことを綾と呼ぶ男が現れる。澤館ミトス隊副隊長、曽部賢史だ。
沈みきっていた空気が、音を立ててひび割れた気がする。綾の額に、青筋が立つ。
「あれ、そういえば君って確か、天野ぎぎゃっ!?」
賢史の顎に、綾の大太刀が突き立てられる。無論、鞘には納まった状態の殴打ではあるが。
「---このように、俺のことを綾と、さらにはちゃん付けで呼ぶと脳震盪を起こすことになる。気を付けてな?」
綾がほくそ笑み、脳震盪を起こし地を這う賢史の頬を鞘でぐりぐりと捻りながら、進次に振り替える。進次は苦笑しながら、一歩後退る。
気付けば一人、また一人と、運動公園にミトス達が集いつつある。綾の言葉は気がかりだが、それは進次を気にかけてこその忠告だったのだと、ありがたく頂戴する。
たった一人で走り続けられる人間はいない。そんなことはわかりきっているが、しかし、進次にはひどく他人事のように聞こえていた。
だって、誰かの幸せを願う。それは決して、独りきりではできない、またとない幸福に違いなかったのだから。