第四章/chapter10 三位の竜、その名は---
「世界の、心臓……意思?アニマ・ムンディ?それは、一体……」
進次がひどく混乱したように眼鏡を上げながら、ティアマトを名乗る少女の瞳を見つめ返す。その時になって初めて、気付いたことがあった。
(あれ、この子……)
目の焦点が合ってない。恐らく彼女は、進次のことを見ていない。
否、正確には見えていない。
「詳しくは、私から説明させて貰うわ。これは、私たち[宗崎]の愚かな妄執の話。どうか耳を傾けて」
大海が言の葉を紐解いていく。それは、ある一族の訣別の物語。世界を救う、などという大願の前に踊らされた、惨劇の罪業である。
「始まりは、およそ300年前。私達の祖先は、慎ましくこの社を、湖を、土地を治める神道の一門だったのだけれどね、ある南蛮の組織に唆されたのよ。
『貴方たちの血なら、この虚ろなる獣たちに脅かされた世界を救える。いいえ、それどころか虚ろなる獣を支配することすらできる』…なんてありきたりな詐欺のようにね」
「南蛮の組織……?伴天連みたいなもの?」
「まさか。わざわざ異郷の信仰団体に喧嘩を売るようなことするわけないじゃない。
日本に古くから根付いてる、人類の守護者たる組織が、他にいるでしょう?」
大海の視線が進次の左腕に向けられ、進次が思い至ったように、見つめられたそれを見る。
「……塔機関!」
そう言うこと、と大海が頷き、思い詰めたように瞳を伏せる少女の肩を抱きながら、その生い立ちを語ってゆく。
「塔機関はね、虚獣が現れるのは、大いなる意思によるものの働きがあるのではないか……そう仮説を立てたの。
例えば、この惑星が、世界が、一つの魂を持っていて、その魂の意思こそが、虚獣を私達の人類に差し向けているのではないか……とね」
進次の想像を絶する規模の話に、絶句する。いや、考えてもみればなんら不思議な話はないのかもしれない。
「そうして塔機関は、私達の祖先に持ち掛けたのよ。私達の血族に、その世界の魂、界魂たるモノを降霊させて、制御する。そんな計画をね」
ようやく合点がいく。要するに霊媒巫女のそれだ。
「彼女はその成功例、ってこと?」
腹の底から、言い様のない感情が沸き上がるのを感じる。いっそ内臓が裏返り吐き出しそうなほどの不快感。
だが、それを吐き出すのは今ではない。奥歯を接着し、大海の言葉を待つ。
「……だったらよかったのだけれどね。このお話はまごうことなき社会の影だけれど、そこにはまだ、裏があってね」
大海が自嘲するように進次から瞳を切る。きっと、進次は今、ひどく醜悪にその顔を、その表情に歪ませているに違いない。
ここに来て見えない瞳を伏せていた少女が進次を見て、語りだす。
「私はティアマト。けれど、混じっているの。いいえ、つぎはぎの屍竜なの。彼らは、わた、わたし/わらわの魂をより人類の易にせんという業により、二柱の竜を降霊させた。浅ましきモノよなぁ…」
少女の雰囲気が、二度、切り替わった…ように、感じる。沈みきった顔をしていた少女は、嘲るように頬を歪ませながら、それでいて祈るように、涙を流す。
「君は一体……。界魂だっけ?その降霊に成功したってことは、制御に成功したんじゃないの?」
進次は解りきった疑念を口にしながら、なお追求する。
現に、虚獣は消えてはいない。それこそが計画の失敗を告げているのだが、さて、その上で二柱の竜を降霊したとは、どういうことなのか。
「わからぬか?目の前の欲にしか手を伸ばさぬ矮小なる人には、わからぬかもしれ、しれ、ぬ……。
……ごめんなさい、ちゃんと説明、します、ね。私の体には、私と、他に二柱の竜がその魂を宿しているの。
一つは、干魃の化身として、尾根に氷を封じる竜、ヴリトラ。
一つは、私と最も性質の近い、終末の供物たる海魔、レヴィアタン。
この二柱は、10年前に私に新たに降ろされ、そして組み込まれました。わた、妾を、斃すために。その結果、妾、わたし、は、暴走を迎え、あの災厄を、[澤館虚獣大災害]を引き起こしてしまったの」
ああ、ようやく絡繰が見えてきた気がする。要約すると、これは神話の再現なのだ。
遥かな神代、神々の母たるティアマト神は子である神々に斃された後に、その体を二つに裂かれ、天地創造の礎とされたとか。
ヴリトラは、乾期の化身として人々を苦しめる悪竜だが、これを打ち倒すことにより尾根に封じられた氷を融ける、すなわち雨季の訪れを招くとか。
レヴィアタンは世界の終末において、その終わりを生き延びた人々の前に力尽き、新たな世界へ向かうための謝肉として糧となるとか。
共通していることは、此を打ち倒すことによって、人類の繁栄の礎となることだ。無論、そんなことが本当にできるのかなどは、今の進次には些末な疑問だが。
「………そんなの」
進次の中に沸き上がっていた感情が、遂に溢れだす。体はこの冷たい石室を沸き上がらせるほど熱く血流を刻み、その鼓動の速さに、立ち眩みそうになりながら、ありったけの、その感情を解き放つ。
「そんなの、おかしいでしょ!?どうしてそんな、そんな酷いことを!」
それは怒りだ。進次の魂を沸き上がらせる、止めどない熱血だ。大海はひどく申し開きのないように、その顔を悲しみに染めながら、その怒りを鎮めんと、頭を下げる。
「ええ、まったくその通りよ。全ては、私達の祖が引き起こした過ち。そのために、貴方の幸せも壊してしまった。一族を代表して、貴方には謝らなくちゃ---」
「そうじゃない!こんな、こんな普通の女の子に、そんな残酷な運命を押し付けるなんて…!」
進次の一言に、大海と少女が目を丸くして、思わずその顔を見合わせる。
「あの、ええと?私を、私たちを責めない、の?」
少女のおずおずと尋ねる言葉に、毒気を抜かれる。見当外れの怒りが、その遠慮がちな表情に冷却される。
「……だって、それは君が、ヒロ姉が起こしたくて起こしたものじゃないんだろ?なら君だって被害者だ。
喪われたものは多すぎたけど、それを悔いているなら、あとはどう償っていくか、そっちの方が重要じゃないか」
それは、進次自身が必死に自分に言い聞かせてきた、生きる理由だ。そうでもしなければ、進次は自分を究解することはできなかった、罪を清算する方法。生きる目的。
「だいたい、なんでこんな穴蔵に閉じ込められてるのさ?それもあんまりだ。もっと明るくて、美味しい空気の場所にいるべきでしょ」
進次が悪びれることなく、少女の視線と同じ高さにかがみ、包帯にまみれた手をそっと握りながら続ける。少女はそんな進次のぬくもりを感じて、憧憬した彼の魂と同じモノを感じて、温かな涙を流した。
「まったく、やっぱり親子ってものね」
大海が呆れたように、しかして嬉しそうに微笑みながら、懐かしい彼の事を思う。ちくちくと、進次の心を苛んでいることも知らずに。
「改めて、君の名前は?」
「だから、ティアマトで、ヴリトラで、レヴィアタンだと---」
「そうじゃない。君が生まれた時に貰った、人としての名前。ないの?」
進次の黒曜の瞳が、少女の翠玉の瞳を真っ直ぐに見つめる。たとえその目が見えていなくても、進次は彼女を神と畏れず、ただそばにいる隣人のように、「人間」として。
「---鈴奈。宗崎鈴奈、です」