第四章/chapter9 幕間:Seal of Tiamat
---知叡あるモノは触れるがいい
これなるは万象統べる惑星の王権
見事束ねしモノにこそ
神業は解かれん 始まりの水に触れるべし
されど足りぬモノの手が この王権に触れたなら
世界は生けぬ 世界は保てぬ 母なる御霊は黄泉還る
終わりを呼ぶな 生きとし生けるモノならば---
「よし、この地点は完了だ」
「ふう……壁盾を長時間ブレさせずに支えて、その上噛まずに詠唱するの、キッツいわぁ」
ナターシャが鏡のように磨かれた壁盾・ トゥプシマティを折り畳み、一息。変身を解き、夏の陽光に焼かれた白い肌を赤く火照らせながら、その額を汗ばませる。
澤館は彼岸。ランスロット探偵事務所が請け負った事業の一つとして、所長のトーマと助手のナターシャは、こうして今日も龍凪湖の湖底へ向けて、陽光の結界を結ぶ。
「ねえ、トーマ。アタシいまいちピンと来ないんだけど、コレ本当に効果あるの?」
ナターシャの疑念ももっともだ。トーマ自身、このような大掛かりな事業を、というよりは一族に課せられた使命を遂行するのは初めてのこと。
天命乃粘土版。そう呼ばれる、神代の最高神が持ち得たと言われる、生きとし生けるモノ全ての情報が詰まった、最古のブラックボックス。
……もっとも、ナターシャの手にある盾はその名を冠した、序文とされる眉唾物の書版が刻まれた、ひどく劣化したレプリカではあるが。
「そうか、ナターシャは判らないか。うまく説明することはできないが、ああ」
海風ならぬ、湖風がそよぎ、ナターシャの髪と、トーマの燻らす不味い煙を陸地へと揺らす。遥か彼方の過去、トーマの祖先が為してきたその血脈がそう告げているのだろうか。トーマ自身、これが正しい、と漠然と感じる程度の実感。
「竜というやつは、穴蔵に潜むだろう?総じて奴等は、日の光に弱い。日光を、お前の魂で感応した詠唱と共に差し込む事で、目には見えないかもしれないが、封印に必要な鎖をこの湖面に張っている。そして、相手がソレとわかっているなら、対策も立てられる。
……だが、それでも。お前のことを利用しているのは、ホーキンズの連中と同じだ。苦労をかけるな……」
トーマが静々と視線を落としながら、ナターシャに遺憾の意を示す。ナターシャはトーマに歩み寄り、おどけたように微笑みながら、
「全然違うよ。あの時のアタシには選択肢すらなかった。そんな苦しみの中から連れ出してくれたのは、紛れもなくトーマだった。無理強いすることだってできたはずなのに、それどころか右も左もわからないアタシに、選択をあたえてくれたんだもん。
だからね、アタシは、そんな貴方のために、この祈りを捧げるの」
---ナターシャの陽光を思わせる黄金の瞳が、まるで、たった今湖底に放った光のようにトーマの深い紺の瞳を射抜く。目眩がしそうな、今すぐ彼女を抱き締めて逃げ出したい気持ちを、不味い煙の味で圧殺する。
正直、困る。ナターシャを利用しているのは、ホーキンズの一族と同じこと。それは確かだ。
現代の影に潜んだその、生命に欠かせないエネルギー。だからこその繁栄を築き上げてきた、神への献身にして涜神。或いは、命を産み出す神の御業の再現。聖娼の一族として、神の降臨と合一を試みてきた、それがナターシャの一族の歴史。
ナターシャは、驚異的な依代を孕む母体としての才、遺伝子、胎盤を持って生まれた、一族の異端だ。それ故にこそ、
(悪魔の再臨、そんな妄執に囚われたホーキンズの一族に狙われたわけだが……。俺も、似たようなものだ)
トーマがナターシャに掛からないよう天を仰ぎながら、力無く煙を吹き、火種を灰皿に捨てる。そうわかっていながら、ナターシャの過去を知りながら利用している。だから、そんな自分になついた子犬のように迫られては、困るのだ。
竜殺し。伝承では語られないが、トーマのもう一つの名は、ランスロットはかつて、赤き竜を討つために故郷を離れ、かの島国に渡ったのだと言う。
結末は言うまでもない。ランスロットはその手で竜を殺さなかった。殺せなかった、と一族の口伝では伝わっている。しかし成果だけ見れば十分だった。赤き竜の后との不義、その逃避行によって、どうあれ、赤き竜の一族は、滅びの道を辿ったのだから。
(だが、もし今俺が同じ道を辿っているのだとしたら、正しいのは、一体誰なのだろう)
「トーマ?」
白い指が、トーマの顔を隠す前髪をかき上げる。ナターシャの不安そうな顔に、罪悪感をより一層強めながら、薄荷の混じった口臭防止錠を噛む。
「ああ、なんでもない。……そこに、ソフトクリームの売店があっただろう。一息ついたら、次の地点へ向かうぞ」
やった!とナターシャが飛び付くように/不安を振り切るように駆け出し、売店の前で、人目も憚らずにとび跳ねながらトーマを手招きする。トーマも甘味は好きな方だ。
鉄仮面が絆されたように、静かに緩みながら、その無垢な笑顔に歩いていく。
その驚異は、いつ襲い来るかわからない。しかし、やらねばならない。幸いにしてバックアップは秘密裏ながら潤沢であり、戦うべきを見誤らなければ、ナターシャを傷付けることもないだろう。
今でさえ彼女をその渦中に巻き込んでいるのは忍びないが、どうしてもその協力は必要だ。
この世界の終わらない戦いの運命を操る凶竜を封じる計画[プロジェクトSeal of Tiamat]を完遂するために。