第四章/chapter8 アニマ・ムンディ
澤館を走る各駅停車のローカル線に揺られて30分。大きめのキャリーバッグを引きながら、目的地に到着する。
時刻にして午前10時を少し過ぎる頃。それなりに有名、ご利益のあるとされる神域にあやかろうと訪れた参拝客に紛れながら、進次が境内を往く。
龍凪大社。龍凪湖の伝承、荒ぶる龍神をある神道の一族が鎮め、その龍がとぐろを巻き眠りについたことによりできた湖が龍凪湖なのだとか。一説によれば、その龍は元々多頭の恐るべき怪異・ヤマタノオロチの一頭がスサノオノミコトに敗れた後に落ち延びた……などと、進次も詳細は知らないが、そうした由緒ある神社らしい。
「相変わらずなかなか忙しない場所だなぁ。まあでも、こんなに忙しそうな中里帰りをさせてもらってるんだから、感謝しないとな」
いそいそと、御守りや護符を販売する、巫女姿の少女達を横目に眺める。夏期のアルバイトだろうか。
「あっ、進ちゃん!待ってたわよ、久し振り!」
その巫女の中でも、一際手際よく参拝客を捌いていた、一際身長の高いはつらつとした女性が進次の姿を見つけ、声をかける。その視線をたどり、参拝者達の視線が進次に一転集中する。
「ちょ……大海義姉さん、お客さんの前で大声で呼ぶのはやめてってば!」
一際身長の高い、具体的に言えば、180cmはありそうな女性はアルバイトの巫女にその場を任せ、社務所のカウンターを出て、まるで主人の帰りに目を輝かせる子犬のように進次に駆け寄る。豊かな黒髪はポニーテールに結い上げられ、たおやかな巫女服の袖から伸びる腕は健康的な肉付きで、彼女の普段の薙刀の鍛練の成果を物語っている。その腕で進次を抱きしめ、人目も憚らず頭をくしゃくしゃと撫で始めた。
彼女の名は宗崎大海。数年前に進次に音信を届け、こうして手厚く歓迎してくれた、進次にとっての、心の森の兄弟達と同じくらいに大切な、もう一人の家族だ。
「わかった、わーかったから!」
しかし、この過剰なまでのスキンシップ。進次も健康な男子だ。人目に触れなくとも照れ臭いのに、このように大衆の前でその姿を晒されれば、再会の喜びより気恥ずかしさが勝るというもの。どうにか冷たくないように、そっと、しかし強かにその捕縛を振りほどく。
「ああ、ごめんね進ちゃん。龍凪大社は沢山の人が来てくれるから寂しくはないけど、やっぱり家族は、別格だから」
大海がやや困ったように微笑み、少し哀愁を漂わせた黒褐色の瞳を伏せながら謝罪する。
「……まったく、ずるいなぁ、ヒロ姉は」
進次が苦笑を浮かべながら、その瞳を見つめる。宗崎の一族、進次の知る限り、彼女はその最後の末裔なのだ。彼女の母は10年前の澤館虚獣大災害で命を落とし、父は数年前に病没。そんな折りだった。彼女が進次の存在を知り、連絡を届けたのは。
「……あらっ!?進ちゃん、その腕章……それに、その腰の剣!」
大海が目を丸くしながら、進次の勇姿を凝視する。
「へへ、うん。この度、ミトスになりまして」
進次が得意気に鼻を擦りながら、ドヤ顔を決めて見せる。大海が呆気にとられたように息を飲んだ後、なぜか、困ったように眉を潜めながら微笑み、
「……おめでとう。歓迎するわ。おかえりなさい。ささ、どうぞ奥へ奥へ。ささ」
「?」
進次はその挙動に不信感を抱きながらも、大海に先導されながら、社務所を通り抜け、その奥の宗崎家の自宅入り口を潜り抜ける。社務所まで屋根づたいの玄関は少し薄暗いが、大海の点けた電灯で、その雰囲気は一変する。
普段からよく手入れされているのであろう檜の床は芳しい香りを漂わせ、下駄箱の上に飾られた季節の花々は、凛とその美しさを主張するように胸を張っている。正面には掛け軸が掛けられ、趣深すぎて進次にはよくわからないが、つらつらと流れるように書かれた書が埃を被ることなく、管理が行き届いていた。
「相変わらず、つまらない日本家屋でごめんネ。上がってちょうだい。」
「そんなことないよ。むしろ鉄筋コンクリートのアパート住まいだから、新鮮だよ。お世話になります」
進次が床を傷つけないようキャリーバッグを抱えて、大海に案内されるまま縁側の客間についていく。そのわずかな道すがら、進次は意を決して、大海に打ち明けた。
「あのさ、泊めてもらうのも勿論なんだけど、実は僕、今日はここに人を探しに来たんだ」
大海が、夏の日差し指す縁側で立ち止まる。その背はまるで、何かを拒絶する壁のように、ひどく大きく見えた。
「ふーん。どんな人?例えば---」
大海が振り替える。その顔に先ほどまでの朗らかさはなく、まるで、年貢の納め時を覚悟したような、諦念と覚悟を併せ持った毅然とした瞳があった。
「例えば、とても人間とは思えない女の子、とか」
進次が部屋に荷物を置き、大海に連れられるまま本殿に踏み入る。無論、数々のお祓いと、清めの装束を着せられた後に、だが。およそ神社は、表向きに賽銭箱や本坪鈴のある拝殿に祈りを捧げるものだが、その奥に、御神体を祀る本殿がある。当然そこは神域として気安く立ち入っていい場所ではないのは言うに及ばないだろう。
このような神道の、宗教施設の心臓部に入ることなど、恐らく人生の中でもそうはない経験だろう。しかして、この奥に件の少女がいるのだろうか。
「ヒロ姉、どうして僕がその子のことを探してること、知ってたの?」
「静かに。不敬ですよ」
先ほども問いかけた、その問いをピシャリと封じられる。大海に促されるまま、祭壇に祈りを捧げる。
二礼、二拍手、そして祈りを捧げて、一礼。
そこで大海が深く深呼吸をし、意を決したように、進次に振り替える。
「いい?これからの出来事は、絶対に誰にも話してはだめよ。それが例えば、話さなければ殺される状況でも」
ひどく物騒な例えだ。それだけ隠したい「何か」がある。否、正確には「居る」のだろう。
大海が祭壇の、ある一ヶ所の木の繋ぎ目を、押す。それが、この絡繰を動かすスイッチだったのだろう。木製の歯車が噛み合い、回る音が手狭な内陣に響き、御神体を祀る祭壇が、ゆっくりと、その下に隠された虚を開いていく。
「……隠し階段?こんな仕組みがあったなんて……」
「行きましょう。この先に、『あの子』はいるわ」
石造りの、所々に光苔が生えた幻想的な、しかし得体の知れない不気味さを漂わせる暗闇の階段を降りていく。明かりはその光苔と、大海の手にした提灯のみだ。
夏の暑さを段々冷ましていく石の冷たさと、しかし苔が生えるからには必要不可欠な豊潤な湿度に、温度と匂いは真逆だが、進次はなぜか、あの、通行管をでの記憶を連想する。
「さあ、着いたわ」
目の前には、光漏れる古びた木の扉。生唾を飲み、大海がその扉を開くのを待つ。左腰には、いざというときのために蓮剣を。否、むしろ大海が、それを持ってくるように望んだのだ。
(いざ相手が本当に虚獣の親玉だったら……話が通じなかったら、やるしかない、のか?)
左手は常にその鞘に。静かに褌を絞め直す---。
扉が開く。一瞬、眩しすぎるほどに岩壁を覆い尽くす光苔の金緑色に、目を潰される。そんな中で、
「やっと、やっと、やっと来てくれた!譲おじさん!」
その腰回りに突進するように飛び付いてきた、その少女。年齢にして10歳程の、絹のような磨き込まれた黒髪に、左腕を覆っている包帯。どうやら巫女服姿らしく、白と赤の凛としたコントラストが、幼い躯ながらに、どこか慎ましい魅力を放っている。顔は---。
(……目隠し?)
その顔の上半分を覆い隠す、真っ黒な革製の眼帯を付けられている。
あまりにも進次の想像とは違っていた、この石室の主。こんなただのいたいけな少女が、何故こんな所に押し込められているのか。そして、決して聞き逃せない、あの人の名前を口にした……!
「君、父さんを知ってるの?」
顔の下半分しか見えていないが、進次の声に、言葉に、明らかに怯えたように笑顔をなくし、後ずさる。
「……だれ?」
「僕は天野進次。今君が言っていた、天野譲の息子だよ」
「大海!?」
困惑したように大海に振り替える。どうやら彼女は、あの眼帯の状態でも、どこに誰がいるのかわかっているらしい。その判断基準は……
「貴女が先走ったのよ?よっぽど譲さんに会いたかったのはわかるけど、魂を基準に人探しをするのはやめなさいって忠告したのに」
魂。あの少女には、魂の存在を感知する力があるのだろうか。それは即ち、この蓮剣に、まだ、譲の魂が---。
「私は、進ちゃんなら大丈夫だと信頼して連れてきたの。あとは、貴女の決断次第よ」
消沈した眼帯の少女。しかし意を決したように、深く息を吐き、おもむろに、その眼帯を外し始めた。
目は閉じられたままだが、長い睫毛に、透き通る白い肌の眉目秀麗。そうして、その禁断の瞳が、開かれた。
「---------」
進次が絶句する。その瞳孔は、夜行性の動物のようにこの光苔の光を引き絞る縦長。翠玉色の虹彩。
間違いない。角と手足を包む鱗はないが、彼女こそが進次が見つけた、最も人に近い怪異。
「君は、何者なんだ?」
少女は右腕を胸に添えながら、その名を語る。この世界が、狂い始めた原因。終わりなき戦いを巻き起こす、暴虐なる母の銘を。
「私はティアマト。この世界の礎にして、心臓である世界の意思……"界魂"です」