第四章/chapter7 都市伝説【虚獣の親玉】
芳しいコーヒーと、焼けたパンの香りに引き付けられながら、013号室の扉を開く。どうやら料理長は進次の見送りのため、朝から無理を押して朝食を作ってくれているらしい。
「ただいま」
「おう。なんだ、えらく遅かったな」
焔がアンテナのようにしつこい寝癖を指でしきりに弾きながら、コーヒーを片手に進次を迎える。どことなく寝惚けたような半開きの目が覚めるには、もう少し時間がかかりそうだ。幸いにして、今日は土曜日。神山相談所も労働基準法に則り、本日は休業日だ。
「ちょっとした寄り道だよ。今日は………ミモザサラダに漬け込みチキンのバゲットサンド?美味しそうだね」
あたぼうよ、と得意気に鼻を鳴らす。共同生活を送っている以上料理は交代制ではあるが、進次のレパートリーにはなかなかこうしたカフェに出るようなハイカラな物はない。常日頃からコーヒーと共にある焔らしいメニューだ。
『いただきます』
同じ食卓に着き、こうして食事を共にする。進次と焔は10年来の付き合いだが、こうして共同生活を始めたのも今年の春から。最初は互いの認識の違いから喧嘩をすることもあったが、流石に心の森で同じ生活環境で育っただけのことはある。そうした齟齬もすぐに噛み合うようになった。
「ん、美味しい。このチキン、ちょっとだけからしの風味がするね」
「お、分かる?漬け込んだソースにほんの少し仕込んだんだよ」
食材を調味料に漬け込み調理する。そうすることにより防腐効果を産み、さらに発酵させて長期保存・熟成するのはよくある調理方法だが、昨今は氷室の発展により、食材の保存はしやすくなったことだろう。そこをあえて漬け込み数日寝かせる辺り、郷土色を出す焔の並々ならぬ先人へのリスペクトとこだわりを感じるところだ。
「そういえば昨日の話だけどさ、お前、あの話は本当なのか?」
焔が眠気を忘れたように身を乗り出しながら、進次に問いかける。昨日、あの話。焔に昨日話した、焔が眉唾と疑う話と言えば、1つしか思い浮かばない。
「ああ、焔の中学時代のマル秘ノートが出てきた話だね?大丈夫、焔の名誉のためにも中身は見てないから」
コントの手本にできるほどの、スナップの効いた叩きが炸裂する。咄嗟の回避も利かないままに受けた衝撃に、進次の視界に星が舞う。あと、したたかに舌を噛む。
「ばっか、捨てろ。すぐ捨てろ。今捨てろ。………そうじゃなくてさ!」
焔が苦虫を潰したように顔を青ざめさせて狼狽えながら、どこか言葉を選ぶように、声を潜める。
「……昨日見たっていう、虚獣……?かもしれない、ヒトガタのことだよ」
焔が声を潜めるのも道理だと、合点がいく。まことしやかに囁かれる、UMAのようなその呼称に悪意を感じるのはやるせないが。
あれは、一体なんだったのか、進次自身にも見当がつかない。又の双角、剥がしかけのように赤く膿みながら、緑の鱗に包まれた肢体、ヒトの瞳孔とは明らかに違った、翠玉色の瞳の少女。年端もいかぬ、いたいけな雰囲気を放っていた彼女は、果たして虚獣だったのか、それとも---。
「うん。確かに見た。鬼神にしては、人間みたいな特徴を残しすぎてたし、小さかったし。なにより、確かな理性を感じた。襲いかかってくることもなかった。虚獣って断定するのは、早いと思う」
進次がそう自信をもって告げるのは、実際に相対したからだろい。焔は思案に暮れるように顎に手を添えながらスマートフォンを点け、ある記事を見せた。
「……なにこれ?『速報:虚獣の親玉顕る』……?」
「実は、昨日の晩気になって調べてみてな。コレ、結構有名な都市伝説らしいぞ」
焔からスマートフォンを借り受け、記事に目を通す。
要項をまとめると、虚獣の現れた戦場に顕れる、謎の人影がいるとのこと。それは進次が捉えた特徴と一致し、ミトスが交戦を仕掛けようとしたところ、攻撃を受ける前に逃げるように消滅してしまったこと。
虚獣とミトスとの戦いの最中、「何か」を探すように街を彷徨っていたこと。このような光景が、数こそ少ないが世界中で目撃されていたこと。生憎と、写真は1枚としてなかったが。
以上の観測点から、この少女が虚獣の上位にある存在、すなわち【虚獣の親玉】ではないか……という記事が掲示、議論されていた。
「-------」
進次が絶句する。それも詮無きことだろう。なにしろ想像を越えた議論のオンパレード、自然災害と言われ育ってきた虚獣に、まさかの親玉≒黒幕がいるのではないか、などと訳のわからない羅列が延々続いているのだから。
(いや、それは嘘だ)
進次が手放しかけた思考を、石にかじりつくように手繰る。進次も薄々感じてはいた。そう、10年前から。
まるで、酒池肉林のような理不尽な殺戮劇。これは自然現象などではない。誰か、悪意ある者の仕向けた、暗黒謝肉祭なのではないか……と。
「やっと、見つけた」
---では、では?あの少女の涙は、感涙に包まれたようなあの声はどう説明する?あんなにも焦燥したように、安堵したように進次に差しのべられた腕は、どう説明すればいい?
「偶然とは、思えないよな」
呟きながら、焔にスマートフォンを返す。運命か必然か。進次が取るべき行動派は、もう決まっていた。
「焔、僕、この子に会いに行ってくるよ」
焔が齧りついたパンを丸呑みにして喉を詰まらせながら、進次の瞳を凝視する。
「んぐっ、なにぃ?こんな得体の知れないヤツにか!?……どうやって?」
焔の困惑はもっともだ。虚獣と共に顕れる神出鬼没な、それこそ雲を掴むような相手をどうやって見つけるというのか。会ってどうするのか。後者の答えは、今は進次の中にはないが、前者なら有力な手懸かりを持っている。
「この子が探していたのは、多分僕だ。この子自身が僕を見て、やっと見つけたって言ってた。
そして、湖の神社で待ってる、と。日本語を喋っていて、神社というからには、日本国内にいる可能性が高い。というかほぼ確定だ。
で、湖の神社と言えば数は絞られてくるし、考えたくないけど、虚獣の親玉という可能性。偶然じゃないとしたら、虚獣の大災害があった街にある湖の神社は、一つしかない」
進次の探偵姿に、焔が唖然としながら呟いた。それは、進次が今日これからまさに厄介になろうとしている里帰り先。由緒正しき、美しき湖の神社。
「龍凪大社か…!」
---一つ懸念があるとすれば。これだけの無視はできないであろう特異を、塔機関が果たして認知していないのだろうか、という素朴な疑問であった。