第四章/chapter6 魂、究解【Ⅰ】
今日は涙、涙と、まだ朝だというのに、そんな表情をよく見た気がする。
安堵の涙、悔恨の涙。正直に言えば、それがどんなものであれ、涙は進次の心には堪える光景だ。彼らだけでも、この手が届く範囲にいる彼らの幸せだけでも守りたい。そんな願いに、涙というものは不釣り合いだ。
「……ちょっと、気分転換でもして帰ろうかな」
朝のいつもの帰り道を外れて、坂の下の交差点の自販機へ。普段からよく飲む方ではないが、夏の暑さと今の沈んだ気分を爽快に吹き飛ばす納涼の炭酸飲料を求めて、早足に歩いた。
150円の体に悪そうな黒褐色の炭酸飲料を買い求め、ベンチに座る。本来であれば、スーパーなどで購入した方が安上がりなのだが、そこはそれ。この時間帯では勿論スーパーは開いておらず、コンビニを目指すのは進次の住むアパートの逆方向だ。いつでも買えて、ベンチで休むこともできる、この場所が進次にとってのオアシスであり、避難所でもあった。
「くぁー、うまいっ」
強炭酸の飲料が、臓腑を激しくノックする。これだけしっかり甘味が添加されていながら、糖類が入っていないというのだから驚きだ。
「ふふ、たまにはいいよね」
進次が満足そうに笑いながら、朝日に起こされ動き始めた車や、犬の散歩をしている人々の流れをなんとなく見つめる。
(昨日虚獣が出ていたなんて、嘘みたいだな。平和だ……とても)
左腰から抜き、ベンチに立て掛けた蓮剣を指でなぞりながら、空の青さと、人々の営みの、静かな潮騒に似た生活音を耳にする。きっと、こんな世界が続いてほしいと願っている。こんな穏やかな世界が、ずっと---。
「黄昏てんな。それとも眠いのか?」
その声に、心底驚かされて見上げる。そこには少し眠そうに目を細めるディビッドの姿があった。
「びっくりした…。おはようございます。散歩ですか?」
「ん…どうかな」
ディビッドが遠慮することなく、いっそ進次を端に追いやってでもベンチに腰かける。今も噛んでいるであろう、ガムの咀嚼している顎の動きが見てとれた。
「……………」
「…………」
会話が途切れた居たたまれなさに、進次がまた一口、ドリンクを口にする。
「そういえば聞いてなかったけどよ」
ディビッドが思い出したように、どことはなく伽藍の空を見上げながら呟く。
「お前、なんでミトスなんぞになったんだ?とても戦いに向いた性格とは、まして戦いに狂ったイカレ野郎には思えなかったんでな。見たところ、虚獣が憎くてしょうがないとか、そんなわけでもないだろ」
進次の呼吸を詰まらせそうな、その何気ない問い。ディビッドは何を思うのか、進次の顔を見ることもなく、どうでもよさそうに、しかして青い空を焼くような、鋭い青の炎の瞳で毅然と宙を見上げている。
進次がミトスになった理由。それは、進次を取り巻く人々の幸せを守るために他ならない。しかしそれなら、もっと別に手段はいくらでもあったはずだ。
例えば、街の秩序を守る警察官。例えば、人々の営みを循環させる公務員。例えば、人々を笑顔にする料理人。例えば、兄弟達と寄り添い続ける道もあった心の森の職員。
進次が思い浮かぶ実現できそうだった手段は、どれもこれも、夢を追いかける若者にしてみれば当たり障りのない堅実な、しかしつまらない道だっただろう。別段、それが嫌でその道を選ばなかった訳ではないが、しかし。だからこそ、ミトスになることだけは、もう決めていたことだった。何故なら---。
「そう、ですね。多分、罪滅ぼしなんだと思います」
「なに?罪滅ぼし?」
ディビッドが怪訝そうに、進次の横顔を見る。進次は黒褐色の水面に写る、どこかアンニュイな自分の瞳に向き合う。
ああ、思い出してしまった。それは、つい先ほど瞼に焼き付いた罪深いアカ。
「し…ん…じ………生きろ」
「僕は10年前、子供の身勝手な正義感で、大切な人を、父さんを喪ったんです。父さんは、僕に、こんな馬鹿な子供に、最期に『生きろ』と言いました。それは、きっと」
進次が水面から瞳を上げる。ディビッドの瞳と進次の瞳が互いを射抜き合うように、その答えを確かめ合うように、静かに交差する。
「僕に、父さんが託した最期の贈り物なんです。父さんが守りたかった人達を、きっと、父さんも大好きだったこの世界を、生きて守ってくれって。そんな、僕には重すぎる祝福なんだと思って」
進次が話終わり、照れ臭そうに耳を赤くしながらその視線を切り、最後の100mlを飲みきる。我ながら、こんな自分語りをしたのは初めてかもしれない。 それも、よく気心知れた人に打ち明けるのではなく、確かに信頼を築きつつはあるが、知り合ってわずか数日の仲間に告げるのは。
きっと、今のディビッドの雰囲気がそうさせているのだろう。触れれば傷を負う、そんな全身凶器のような彼が進次に初めて見せる、泰然とした態度が。これは、どうしたことだろうか。
「ほう…?罪滅ぼし……な。いかにも、青臭ぇお前っぽい理由だ。結局は自己満足だろ、それ」
たった今吐き捨てたガムのように、飛び出したその言葉。進次と結んだ視線は、しかし嘲笑に染まらず、その真意を逃さぬように見据えたまま。
「自己満足…。そうかもしれません。僕は、きっと許されたいだけ。それは、わかってるんです。勝手だな、って。酷いエゴイストだって。でも---」
「どうあれ、それが究解ってるなら、それでいい。それだけで戦える。それで十分だ。……悪いな、ちょっとお前を試したかったんだ。虚獣一匹倒したくらいで、いい気になって手前の根幹を忘れてねぇかどうか、な」
ディビッドが立ち上がりながら、その背に謝罪を告げて、立ち去ろうと歩き出す。その頬は少しだけ、嬉しそうに口角を上げていた気がした。
ああ、そうか。ディビッドは認めようと、確かめようとしていたのか。一度でも死線を潜り抜けた進次が、これからも戦えるのか。これからも、共に在るに値するのか。
「あの、ディビッドさん!」
ディビッドは立ち止まらない。ただ左の鈍色の拳を掲げながら、少年に束の間の別れを告げる。
(ありがとう……でも、残念だな。ディビッドさんの話も、聞いてみたかったのに)
きっと、いつかそんな男の背中に在るモノを知る日が来る。そんな予感を願いながら、吐き捨てられたガムを拾い、ペットボトルと共にくずかごに。
抱えたそれぞれの重さは違えども、きっとそれは、彼ら各々の手にしか馴染まない。膝をつくこともあるかもしれない。取り零すこともあるかもしれない。
しかし今は、そんな時立ち上がる手を取り合う仲間ができたのだと、そう信じながら、家路についた。