第四章/chapter4 ちょっぴり酸っぱい、中和涙
PPPP…PPPP…
ひどい寝汗の感覚で目が覚める。
そこはいつもの白い天井と明かりの消えたライトが、ぼんやりと瞼の裏に残るアカを滲ませながら、進次の朝を告げる目覚まし時計のアラームと共にあった。
「う……あ」
今日の寝覚めは、どうにも悪い。昨晩ディビッドに貰った左フックの血の味が未だに舌に残り、明確な色はあれど、半ば困憊で布団に飛び込んで、質の悪い睡眠のせいで見た夢はあれど、
「ひどい汗だ…嫌な夢でも見たかな……」
このように、つい先程見た瞼の裏の色は薄れ、ばつが悪いように頭をかく。覚えていない/思い出したくない、のだろう。進次は手早く白み始めた空に伸びをしながら、焔に遠慮せずに日常をこなす。
今日から5日間、進次はこのアパートを離れる。数年前に音信が届いた親類の家に厄介になる…少し早い里帰り、のようなものだ。
龍凪大社。龍凪湖のほとりにある、この辺りでは最も大きな古い神道の神社だ。その神社で代々神官を務める家系、どうやら進次の母方の祖母がそこから嫁に出たらしい。確か、その姓を宗崎。
(ん?宗崎……最近どこかで聞いたような……)
青のスニーカーを履き、[心の森]へ向かうためドアノブに手をかけたところで、ふと思い出す。あれは、どこで、誰から聞いたのだったか。
(ま、いいか。走ってれば思い出すかもしれないし)
[心の森]に、またしても小牧氏に託された野菜を運びながらたどり着く。今日はコンテナで、虫食いや粒の不揃いで出荷できなかったトウモロコシだ。流石にコンテナ大の重量、そして箱から落とす粗相をするわけにはいかずに、今日は走ることはできなかったために、到着にいつも以上に時間がかかってしまった。
「あれ、天野先輩。今日はゆっくりなんですね?」
思ってもみなかったその出会いに、狐につままれた気分になる。正面昇降口の掃除をしていた、ポニーテールに作業用のエプロン姿の満祈が、意外そうにきょとんとしながら進次を迎えたのだ。
「あれ、帆引さん?おはよう。映画の撮影は?」
「あ…今日は部活お休みで…。明日、部に大事なお客様が見えるので、今日はその買い出しなんです」
それは、果たして休みと言うのだろうか。そう茶々を入れそうになったが、そこはそれ。高校生の夏休みなのだ、部活の仲間との買い出しは、楽しい休みなのだろう。現に満祈が、こんなにも楽しそうに微笑むのだから、眼福というものだ。
と、そんな笑顔が、ふと、何かに気づいたように見開かれたあと、寂しげに/不安そうに伏せられた。
「帆引さん?」
不審に思った進次が、その顔を覗き込む。目と目が合い、動揺したように目を泳がせながら、満祈が問いかけた。
「あの、昨日は虚獣が出たんですよね……?先輩も、戦ったんですか?」
満祈の問い掛けは、どこか正鵠を射ないように、進次を惑わせる。
それは、ミトスなのだから当然戦いはしたわけであるが、今一つ、それで満祈が寂しげに目を伏せる理由が分からない。
---ああ、合点がいった。満祈も、10年前の災害の被災者だ。虚獣が怖いのは当然だ。寂しげは間違いだ。不安だったのだ。その場に居合わせた兄弟達が、先生が。
誰かが、犠牲になるのが。
「大丈夫。誰も犠牲になってない。みんな助かったんだ。幾太くんは、ちょっぴり怪我しちゃったけど、今日には帰ってこられるはずだよ。
……ダメなミトスで、ごめんね。不安にさせちゃったね」
進次が満祈の両肩に手をかけながら、視線を満祈の身長に合わせて、精一杯に励まし、陳謝する。
クリウスが、そうして子ども達に向き合ってきたように、その姿をイメージしながら。
瞬間、満祈が強張ったように口を結び、涙目になりながら顔を真っ赤にした。
(えっ、なにその反応……?)
こう、少女の涙は少年の心臓を、いい意味でも、悪い意味でも高鳴らせる魔力でも秘めているのだろうか。今回に限っては、後者が強い。満祈を、なにかよく分からないが泣かせてしまったのだから。
「わっ、泣かないで!?ね?大丈夫、大丈夫だから!?」
「えっ、違、違くて…っ。私、わたし……」
満祈が止めどなくこぼれ始めた涙を、白く細い指先で拭いながら、顔を横に振る。たおやかに揺れる黒髪の尾が、花のような芳香を振り撒く。その時になってようやく、満祈の香りすらわかるほどの至近距離に近付いていたことを進次に自覚させ、ひどい焦りに見舞われる。そんな場面を、
「あらー?進次くん女の子を泣かせちゃダメよー?随分仲が良いのねー?」
最も、最もこの場面を見られたくなかった、[心の森]最大の不安要素、恐るべき色眼鏡先生、中津川教諭がにやにやと、昇降口からこちらを眺めていたのだった……!
「相も変わらず一番大変なときに状況をややこしくしますね!?おはようございます!」
進次が満祈の肩から手を離し、数歩後退りながら若干キレ気味に頭を下げる。
しんじの のうないは だいきょうかんだ。
「私、不安で…!天野先輩が傷付いてないしまうんじゃないかって、虚獣にやられてしまうんじゃないかって……それだけで……私……」
この場をどうにか取り繕おうと躍起に励起していた進次の精神が、満祈の涙に静かに冷却されていく。満祈は、進次のことを心配していたのか…?決して普段からよく話す方ではなかった、あまり良くない義兄だった、進次のことを。
「ふぅん。じゃあ、無事でよかったわね、満祈ちゃん。でも注意なさい?
戦う覚悟を決めた男の子を弱くしてしまうのはね、女の子の涙なの。それは強力な酸、心に張り付き、苛む痛みになるのよ。まあ、男の子の強い意志、塩基と結び付いて中和されれば、それは極上の栄養になるのだけれど」
中津川教諭が後ろから満祈の肩を抱き、そっとハンカチでその涙を拭う。相も変わらず、分かりづらい例えをするが、言わんとすることは進次にも伝わった。
要するに今の言葉は、満祈だけに向けられた言葉ではなく、進次にも「強い意志を持って戦え」と激励していたのだろう。本当に、相も変わらず遠回しだ。
「……僕、頑張って強くなるよ。帆引さんが、天野先輩なら大丈夫、って言ってくれるくらいになれるように。心配してくれて、ありがとう」
そっと、決意を新たにしたように左手を腰の蓮剣の鞘に添え、右手は満祈の右手を握る。満祈は困ったように眉を潜めながら、それでも精一杯に微笑んだ。
「ところで、小牧さんからトウモロコシを頂いてきたんですけど」
「やだぁ~、進次くん、そんな重いものアタシに運ばせるの?いけず~」
「僕より筋骨粒々でなにいってるんですか……。しょうがないなぁ…」