第四章/chapter2 悪夢 the hell
足早に進次の手を引く焔に連れられ、先程あてがわれた部屋に戻る。言い出したのは進次ではあるが、助けにいく、とはどういうことなのか。そんな手段があるのか。
冷静に考えてみれば、難しい問題だ。メインの入り口である分厚いシャッターは、避難民が入ることはできても、出ることは容易ではないだろう。
「ホムラくん、お母さんを助けにいくって、でも、どうやって?受け付けのおばさんに頼んでも、多分出してくれないよ?」
ちらりと、時計を仰ぎ見る。時刻は4時を少し過ぎる頃。冬場ならば日は落ち、それに連れて虚獣も消滅する頃合いだが、今は夏。まだ煌々と照る夕日があるうちは、虚獣がいなくなったとは考えにくい。なにより、未だに、虚獣警報は解除されていないのだから。
「ああ、わかってる。まだ虚獣がいるかもしれないこの時間に、出してくれるとは思えない。なら」
焔が振り返り様に、自慢げに見せつけたそれは、モンキーレンチだった。ひどく使い込んであるようで、所々にある擦り傷は酸化し黒い痕を残し、しかしウォールギアは日頃から錆びないよう油を注し、その後丁寧に脱脂しているかように銀の輝きを湛えている。
「へへ、さっき倉庫を探したら、外に出られそうな通気口があってさ、あそこのボルトにコイツを合わせたら、なんとか外せたんだ。バレる前に行こう」
進次の黒曜の瞳が、希望を見いだしたように煌めく。この状況で脱出を試みるなんて、まるで名も無き正義のレジスタンスのようだと。この時の進次は、ただ無邪気に焔の背を追うばかりだった。
狭い通気口を、慣れない匍匐前進で登り、時に下りながら、闇雲に出口を求めて彷徨う。時折この通気口を通り抜ける、熱気、煙草の焼けた煙や、揮発した汗などの様々な匂いが混じりあい、ステンレスの管に反響する換気扇の轟音が耳の感覚を麻痺させ、まるでここは巨大な竜の腹の中ではないのかと連想させ、少しずつ、焦燥と恐怖を増していく。
「ねえ、まだ出口は見えないの?」
下にいる大人たちに気付かれないように声を潜めてこの質問をするのは、これで何度目だろうか。体感時間にして、およそ二時間ほど経ったように思えるが、実際には20分と経たない往来。
「だまってろ。もうすぐ……あれは!」
痺れを切らした焔が、吐き捨てるように進次に一喝した直後。今まで下から差していた蛍光灯の光とは明らかに色味が違う、茜色の光を見る。
「出口だ!」
逸る気持ちを前進する力に変えて、必死に這い上がる。焔が左腰に下ろした工具ポーチからモンキーレンチを取りだし螺を捻る鈍い音が、ステンレスの通気管に響き、そして、
「よっし!」
焔の姿が茜色の光の中に消え、そして今度は茜色の光の中から、油と埃まみれになった焔の手が進次に差し伸べられる。
「よいしょ、よいしょ……ありがとう。なんとか出られたね」
進次が礼を告げながら、立ち上がろうと焔を見上げると、しかしそこに、共に脱出を果たした安堵の顔はなかった。
進次が異変を察知したのは、その直後。先程までは外へ向けて室内の空気を排出する通気口にいた故に気付かなかった、外気の澱み。近くで大きな建物が燃えているのか、肺を焼かれそうな熱い煙の臭いと、嗅いだことのない、「何か」が焼ける臭い。
「うっ、なに、これ」
それを指す言葉を、必死に探す。
空を茜色に焼く炎、崩れた日本家屋の瓦礫は、つい先程まで人が住んでいた痕跡など見せず、その土壁と硝子に押し潰されたように物言わぬモノになった、赤い---
「う、うわあああああああぁぁぁあ!」
叫んでいた。叫喚せずにはいられなかった。
思い出した。まだ、今よりも幼かった頃戒めに読み聞かされた絵本。現世で悪さをした人間が行き着く、奈落の刑罰場。
その名を、地獄。この、生きとし生けるものの存在を許さない、紅煉に包まれた世界は、そう呼ぶに相応しい。
「っ!ばか!大声出すな!まだ奴等がいるんだぞ!」
焔が慌てて進次の口を塞ぎ、その手を引いて物陰へと身を潜める。紙一重でその声を聞き付けた、餓えた獣が血眼になり、そこへ訪れた。
動物園で見たことがある、僅か2.5メートルと言って過言ではないライオンなどとは比較にならない、その大獅子。巨大な口は、開けば進次の頭など一咬みで粉々にされるだろうその偉容。
「---------」
恐怖に冷たく沸き上がっていた精神は、今度はその姿に正しく凍結し、息を殺すように、焔とその矮小な体を寄せあい、震えを圧し殺す。
「う……う。誰…か、誰かそこに、いる、のか?」
低く、呻くように聞こえた男の声。進次と焔が隠れた瓦礫の隙間から、その姿が見てとれた。
その顔には、飛び散った硝子の破片がいくつも刺さり、見えているのは上半身だけ。下半身は---。
「ひっ………」
進次が再び悲鳴を上げそうになった所を、焔が押さえ込む。
---下半身は、乗用車の下敷きになり潰れ、柘榴のように赤々とした肉が溢れだしていた。あれでいて生きていることが不思議に思える、その光景。どうやら男は、進次たちの声は聞いたものの、姿を発見はできていない様子だ。
「なあ、誰か、いるんだろ?助けて…助けてくれ……!痛くて、足、俺の足動かなくて……なあ!」
男は必死に、姿の見えない声に救いを請う。その声に応えたのは---。
「ひっ!わあああぁ!来るな…来るなぁ!」
それは、あまりに残酷な食事風景だった。男の声に引かれたのは、進次たちの傍らにいた大獅子。
腕。
獅子は嬉々としてその肉にありつき、やがて止まない男の悲鳴に、辺りの虚獣達も誘き寄せられていく。
腹。
気が付けば、進次と焔はその反対方向へ命からがらに逃げ出していた。えずく口の酸を必死に押さえながら。溢れ出した涙で前が見えなくなりながら。
「ひぃ、やだ。いやだ…いやだっ……死にたくない!死にたくない!死にたく、な---」
段々遠ざかるその懇願を叶える力は、持っていない。やがてその声は聞こえなくなり、獣達の咀嚼音すら聞こえなくなる場所まで、遮二無二走り続けた。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!)
涙で視界がぐしゃぐしゃになり、目の前の焔の背中すら霞んで見えるなか、目にした、この地獄にはあまりに 眩しい英雄の姿が見えてくる。
「お前、進次!どうしてまだこんな所に!」
その、聞き慣れているはずなのに、ひどく懐かしい声に、全身の力が抜け、倒れ混むようにその体に飛び込む。
純白の陣羽織に似た羽織に、一蹴するだけでも大きな攻撃となり得そうな鋭い具足。右腕の、見慣れた蓮剣に、左腕に巻き付けられた、数珠とも鎖とも取れる面妖な装飾。その隙間から見える、左腕の傷。
進次と同じ、黒曜の瞳。
「お父さん!」
その人こそは、今、最も助けを請いたかった進次の憧れ、天野譲その人だった。