第一章/chapter2 塔機関 澤館支部
風見区一丁目から三丁目の、進次の住むアパートへ帰宅する。
時刻は8時を少し回る頃。コンクリート張りの階段を軽快に駆け登り、013号室の鍵を開く。
「ただいま。焔起きてる?」
扉を開く。進次の自室である左手の和室の窓からは光が指しているが、右手の同居人が眠るリビングは以前暗いまま。低血圧な同居人は、どうやら今日も撃沈している模様。
「はあ、やれやれ」
進次は青のスニーカーを靴棚に乗せ、冷蔵庫に小牧氏の野菜を放り込み、同居人を起こすとっておきのモノを作りにキッチンに立つ。
---3分と経たず、それは効果を発揮した。
今にも人を殺しそうな顔をした、やや黒みがかった緋の髪をボサボサにした青年がリビングから現れる。
彼の名は神山焔。進次の[心の森]での先輩であり、現在の職業の上司であり、同居人である、いわば腐れ縁のような関係だ。低血圧でいくら朝が苦手とはいえ、何故彼がそんな顔をしながら現れたのかには、理由がある。
「おはよう、焔。寝覚めはどう?最悪?」
進次は椅子に着きながら、逆鱗に触れる一歩手前ほどの煽りを敢行。テーブルの上には、一杯のコーヒーが置かれている。焔はその薫りで誘き寄せられ、まんまと起こされたのだ。
いや、進次の淹れたコーヒーを飲むために起床したわけではない。正確には、
「お前さ、朝のコーヒーは俺が自分で淹れるから勝手に入れるなって言ってるだろ…。」
これだ。この一言を言うために起床したのだった。なにしろ足しげくコーヒー専門店に通い、いくつかの豆をストックし、その日の気分、気候、シチュエーションまで想定して自分で豆をブレンドし、豆を挽く所から始めるのは序の口、コーヒーマシンを何台か購入し、気に入ったマシンを厳選するために私財を惜しまないほどのコーヒー通、それがこの男、神山焔だ。
大きく息を吐きながら項垂れ、進次の向かいの椅子に座り込み、ブツブツと呟きながらテーブルのコーヒーを啜る焔。
「うわ、薄っ。さては温度低いお湯で淹れたな……焙煎されたはずの香りが台無しだぜ……なんだよこれぇ」
それを尻目に進次は自室に戻り、今日の準備を始める。
生憎と恨み節を吐く焔を窘めるほどの時間は残されていない。
和室に放置された布団とタオルケットをベランダに干す。シャワーを浴びられれば一番よかったが、そんな時間はないのでボディペーパーとフェイシャルペーパーで最低限汗を拭き取り、ワイシャツとネクタイ、礼服のズボンだけを押し入れから取りだし、着替える。
今日進次と焔が向かうのは[ミトス入隊式]。
この世界の、人類の宿敵と呼べる天災、[虚獣]と第一線で戦う存在、[ミトス]。今日はその澤館市の部隊[澤館ミトス隊]の入隊式なのだ。
簡単に言うならば、消防団のようなものだ。有志の民間人を隊員として募り、皆普段はそれぞれの生活のために労働に従事しているが、有事の際は一致団結し、虚獣に立ち向かう戦士となる。
ちなみに、ここにいる焔、そしてクリウスは、すでにミトス隊隊員であり、今日は顔合わせのために招聘されている。それ故に焔もこうして進次に起こされたわけなのだが。
「焔、早く準備して。9時には集合だから急がないと」
「んん、9時?今何時?」
「8時10分。昨日の作りおきしたおむすびがあるから、それは移動しながら食べよう」
進次はネクタイを締め、汗を含んだ髪をタオルで拭いながら洗面台に向かう。焔も観念したように、まだ熱の残るコーヒーを飲み干し、自室に戻り着替え始める。
「進次、早く洗面台空けてくれ。こんな頭じゃ外に出られねえよ」
「なら、早寝早起きを心掛けなよ」
「そいつは手厳しい。だいたいそんな早起きだってのにどうしてそう元気にきびきび動けるわけ?
ほら、睡眠は死の仮想体験とか言うだろ?死に体から蘇ったとなったら、全身に血液巡らせて、断線してた思考回路繋ぎ直して、そりゃもう身体中大騒ぎってなもんだ。なのに、どうしてそんなにシャッキリすぐに再起動できるかねぇ?」
「焔はいちいち大袈裟なんだよ。そんな毎晩眠ってるごとに死んでなんかいられるもんか。でも、強いていうならそうだなぁ」
「?」
焔が順番待ちで並んだ洗面台の鏡に写る進次を一瞥する。その拍子に、さながら間抜けな猿のような自分の寝起き顔と目が合い、自己嫌悪で二度寝たくなる。
「生活習慣、日頃の行いかな。あと、若さ?」
存外に、つまらない回答に焔が脱力する。しかし、若さ。進次とは若干3歳ほどしか年齢が変わらないはずの焔だが、夜通し起きていることが辛くなってきた妬みを込めて、
「うるせえな。いいだろ、夜更かしくらい。若い内にしか楽しめねえことってもんがあんの。まあ、進次はまだまだ踏み込むには早い世界だとは思うけどな」
「はいはい、そんな厭な大人にはなりたくないですよーだ」
互いに悪態をつきながら洗面台を空け、それぞれに身支度を整える。いつもよりちょっぴり忙しい朝の風景。平静を装うが、その実進次は胸を高鳴らせる。
ようやく、この時が来たのだと。鏡の前に立つ少年の顔は、緊張と、一握の希望とに強ばっていた。
焔の運転する大型バイク、そのサイドカーで風を切りながら風見区を抜け、都心たる樹之幹区へ差し掛かる丘陵の道路をゆっくり下る。一度動き出した都市は日常を回すように、車は列をなして道路を走り、直接見えずとも、活発に人々の営みを感じさせる生気が、建物からは伝わってくる。
その街には死と荒廃の気配はなく、並び立つ木々さえ、命を謳歌するように輝きに満ちている。
なるほど、人間のたゆまぬ復興への思いとは、その不屈の精神「希望」とは目を見張るものがある、と進次は手にした握り飯を頬張りながら、立ち並ぶコンクリートの森と、車の流れを丘から見下ろす。
[澤館虚獣大災害]。
この街を、その数およそ30000と記録される虚獣が覆い尽くし、人々を蹂躙した、人類史稀に見る虚獣の大発生災害。
しかし人々も全く備えをしていなかったわけではなかった。過半数の住民達は日々の訓練が実を結び、街に配置された4つの防護施設、あるいはそこに繋がる地下通路に避難。
そして現在の3倍はいたとされる多くのミトスの尽力により、犠牲者は極少まで抑えられた。
それでも、総死者:523名、行方不明者:51名と、世界でも例を見ない凄惨な災害となったことは変わりなかった。
(父さん、母さん…)
進次も、そして焔も、その被災者の一人だった。進次の避難中に一緒だったはずの母親は、防護施設を目の前にして虚獣の襲来に遭い、パニックに陥った人波の中離れ離れになり、それきり再会は叶わず、ミトスだった父も虚獣の前に倒れた。
「なあ、進次」
赤信号で焔が、ふいに進次に語りかける。薄手の黒のジャケットを羽織り、その左腕にはミトスの証たる腕章を着用している。
その表情はどこか固く、普段の軽薄さを感じさせない、悩み多き若者の貌だった。こんな顔の焔は、文字通り真剣だということを、進次はよく知っていた。
「ん?」
進次はあまり意識しすぎないように、自然を装いながら焔を見上げる。
「くどいようだけどさ、やっぱり、お前の人生をこうしちまったのは、俺だったんだなって、今でもたまに思うんだ」
……なんだ、と進次は思わず安堵の息を吐く。進次自身、自然を装ってみたものの、やはり焔のその表情から身構えてはいたらしい。
---それは、少年たちの、過ちの物語---
「またその話?」
進次の、一種呆れたような声に、焔は表情を曇らせた。
「ああ、またこの話だよ。俺が、お前と付き合ってく以上、多分、一生ついて回る話だ」
信号はじきに青に変わる。このバイクが走り出し、口を閉ざしてしまえば、進次は今日という日に、この話を置き去りにしてしまうのではないかと予感した。
進次自身はそれでも一向に構わないのだが、きっとそれは、神山焔との親友さえも置き去りにしてしまうことに繋がるのだと、進次は理解していた。
悔恨はある。違う未来への疑問もある。この未熟な心への罪悪感もある。けれど、今、進次が言うべきなのは、
「焔。僕は、今がちゃんと幸せだよ。だから、いいんだ」
焔の琥珀の目を、進次の黒曜の目が捉える。問答を、その有無を交わす暇を与えない実直なその瞳が、焔は少し苦手だった。
「そっか」
焔が目を逸らしながら呟くと、信号が青に変わる。走り出したバイクが目指すは、この街最大の建造物。緩やかに二重螺旋を描く、澤館のミトスの活動拠点、[塔機関 澤館支部]だ。
「ようこそ、[塔機関]澤館支部へ。あ、焔さん。おはようございます。今朝はちゃんと出席されましたね」
陽光差し込むエントランス。白衣の人物、スーツの人物、焔と同じくミトスの証たる腕章に、それぞれ個性的な武装を身につけたミトスが行き交う受付で、にこやかに焔と進次を迎える青年。
「隼人、おはようさん。まあ、今日は相方が居るもんでな、叩き起こされちまった」
焔が苦笑しながら進次の肩を叩く。
宗崎隼人。焔の同級生にして、ここ、[塔機関]澤館支部の受付の一人の青年だ。
[塔機関]。
その起源は古く、かのバベルの塔たる人の手には余りあった構想の一端を担ったこともあるのだとか。
彼らがこの世界の歴史の表舞台に台頭し始めたのは、ルネサンス期。
『より高次、人間が未来へと至る[塔]を築き上げん』
と謳い、現在はその研究の末、
「塔機関の科学を以てしても解明できない、[虚獣]というの存在が、この世界の真理を紐解く鍵となるのではないか」
という構想の元、虚獣の研究という名目で、副次的に人類の守護手段[ミトス]を生み出し、これを管理する組織となった。
「はい、天野進次さんですね。よくぞ焔さんを連れてきて下さりました。コイツ……彼は、根は真面目なくせに、朝の集会となると、途端不真面目さを発揮しますから」
隼人はにこにこと進次に謝礼する。コイツ、と言った気がするが、気のせいだろう、と進次はお辞儀しながら、
「慣れてますから」
と、視線を交差させる。初対面とは思えない、絶妙な間合い、フィーリング。きっと、焔の寝覚めの悪さに悩まされた者同士、精神世界でハイタッチを敢行したに違いない。
「さて、それでは天野さん。本人確認のできる書類と、住民票、印鑑はお持ちですか?こちらで受付を終えた後、2階ホールにて---」
「さっさとしろ!なんのための受付だ、このノロマが!」
その怒号は、進次たちのすぐ右隣のカウンターから響いた。思わず、その場のすべての人間がそちらに目を、顔を向ける。
そこに居たのは涙目になりながら受付をする、今年入社したばかりの受付嬢・飯島女史と、対面する声の主。
2メートルに達するであろう巨躯、ギラリと飯島女史を 焼くように睨む、青い炎を思わせる瞳。その左耳からは、唇にかけて銀の鎖が伸びる男。
ミトスの訓練校に通った進次は思い返す。偏見ではあるが、あんな暴力の塊のような外国人の同期生、居ただろうか、と。
澤館市は地方都市ながら、外国人定着率が高い。
否、[澤館虚獣大災害]の折りに、この澤館に救難に訪れた活動家の外国人が、家族ぐるみでそのまま定着していった、と言うのが正しいだろうか。
何にしても、進次はこの男に見覚えはないが、放っておけば禍根を残しそうだということは目に見えていた。
「ちょっとアンタ」
不意にかけられた声に、男が目を丸くしながら、余裕なく進次に振り替える。恐らくこの男自身、こうした状況で茶々を入れられたことが少ないのであろうという驚愕の表情だった。
焔はやってしまったと、顔を手で覆いながら俯き、進次を見やる。進次自身、ここから先のことを考えておらず、血の気が引きながら、鼓動が急加速する。
情報を回せ。神経に信号を巡らせろ。脳に血液を急速で通わせて、最適解を捻り出す。
「なんだお前は?」
「…僕も今日入隊なんだけどさ」
まず身の上を話す。我ながら意味がわからない。
「まだ時間もあるんだしさ、アンタの後ろで待ってる人もいない。別にそこまで急ぐこと、ないんじゃない?見なよ、受付さん困ってるじゃないか」
声がぶれなかったか不安になりながら、進次が抗議し終える。男は眉をひそめて、進次の顔を凝視する。
(あ、殴られるな、これは)
進次は男に悟られないように歯を食い縛り、静かに固唾を飲んだ。
「ディビッド・M・ホーキンズさん、お待たせしました!」
5秒と経たないにらみ合いに待ったをかけたのは、隼人の機転。飯島女史に代わり、ディビッドと呼ばれた男の受付を完了させ、パスポートを笑顔で差し出す。
「この度は、当方の飯島がご迷惑をお掛けしまして、誠に申し訳ありません。あちらのエレベーターから、2階ホールへお進みください」
「申し訳ありませんでした…!」
飯島女史が隼人の隣で45度の会釈をしながら涙声で謝罪する。隼人からパスポートを奪い、舌打ちをしながらディビッドが告げる。
「この程度の英語を読めるくらいの教育はしとけ」
ディビッドはどかどかと、進次を一瞥しながらその隣を通りすぎ、エレベーターの中へと消える。それを見計らった焔が、大きく息を吐きながらその場にへたりこむ。
「進次、おま、怖えよ!出さんくていい手ぇ出してたぞ、今!」
進次も、今になって訪れた膝の笑いをカウンターに掴まりながら抑える。
「だ、だってさぁ…」
「いえ、ですが助かりました。見た目より度胸があるんですね、天野さん」
隼人が進次たちのいるカウンターに戻りながら、進次を称える。あの状況が続けば、ディビッドが飯島女史に手をあげていた可能性もあった。
一時的にとはいえヘイトを集め、隼人が飯島女史と代わる時間は、無駄ではなかったと隼人は言う。
「いや、隼人さん?そうやって甘やかされて育ったから、この唐変木は要らんことに首を突っ込む癖がついちまったわけでしてね?困るんですよ?そういうの」
「誰が唐変木だよ」
むっと進次が焔に噛みつくが、焔は軽くあしらいながら、隼人に視線を送る。隼人は級友の義弟という存在に、どこか憧れに似た感情を覚えながら、笑顔で切り返した。
「さあ、天野さんの受付に入りましょうか。」