第三章/chapter7 涙雨の家族【偽】
蛍光灯と白い天井、そして、
「あ、起きた?大丈夫?」
その、優しい微笑みの女神に、思考を奪われる。幾太の齢11の人生の中で、美人だと思った女性は数いれど、彼女のたおやかな仕草、清潔感を感じさせる芳香。その存在感は、群を抜いていた。
一瞬、死んだのかと錯覚した。だが、天国にしては天井の無機質さ、微かな薬品の香りのするこの空間は不釣り合いだ。
「ここ、どこ?」
やっとその言葉を絞りだし、体を起こす。【心の森】の医務室の年期の入り方とは違った、真新しいカーテン、真っ白なシーツに包まれた、別の医務室。
「ここは塔機関澤館支部だ。来るのは初めてか?」
どこかで聞いたような、切れ味のある声がカーテン越しに聞こえた。その声の主はカーテンを開き、幾太と顔を合わせる。
「あっ、えと、二人ともさっきのミトス!?」
二人が揃い、その組み合わせの既視感に思い当たる。彼らは幾太の絶体絶命を救ったミトス。黒の軽業師と、藤色の戦姫だ。
「そうだ。俺はトーマと言う。こっちはナターシャ。よろしくな」
トーマが不馴れなような手つきで、幾太の頭を撫でる。くしゃくしゃと加減が下手なその手は、時折幾太の頭にできたたんこぶを触っては、幾太の表情を歪めさせる。
「さて、全身擦り傷と打撲だらけだったから、お前はここに運ばれたわけだが、検査の結果、それ以外の異常はなかった。念のため、今晩だけはここで入院してもらうが、明日には帰れるぞ」
「そうだ!虚獣は?みんなは無事なの!?」
幾太はそこにきて思い至ったように顔をあげ、迫真の思いで問いかける。その切迫した表情に応えるように、ナターシャは静かに微笑みながら、その白指で幾太の右手を包む。
「心配しないで。虚獣はいないよ。みんな無事だから」
がくっと、座った体勢ながら腰が抜けた感覚を味わう。よかった。本当によかったと、詰まった呼吸を一気に吐き出した。
次に幾太を襲ったのは、滲む視界、こんなにも夏の暑さを感じているのに、止まらない体の震えだった。
「あ、あれ。おかしいな……おか、しいな」
去来したのは、恐怖だ。幾太は、そうだ。オレは、虚獣と戦おうとしたんだ。それを思い出した。
全く歯が立たなかった。否、むしろ戦いにすらならなかった。自分が立ち向かわなければ、どうにかこの手に蘇る牛刀の冷たい柄の感触を振るわなければ、戦わなければみんな守れなかったはずなのに、そんな気持ちさえ粉々にされて、立ち尽くすしかなかった。
本当に、目の前にいる二人が助けてくれなければ、死んでいた命だ。
「怖かった……怖かったよぅ……」
思いは決壊する。体液は涙と鼻水となって溢れだし、幾太の体から恐怖を排出する。
トーマとナターシャは顔を見合わせる。ナターシャは困ったように微笑み、トーマは毒気を抜かれたようにため息を吐く。
本当は虚獣に立ち向かった無謀を窘める予定だったのだが、どうやらそれは、この涙雨が一頻り止んだ後にした方がよさそうだ。
「うん、頑張ったね。怖かったね」
ナターシャがぐしゃぐしゃの幾太の顔に濡れることを厭わず、その体を抱擁する。トーマは寄り添い、背中をさすり、またぞろ不馴れに頭を撫でる。
ナターシャの柔らかな心音と、トーマの無骨だが故に力強い温もりを感じながら、幾太の慟哭が医務室に響く。それは幾太が久しく忘れていた、まるで家族のような身の寄せ合い。
茜色に染まる、二重螺旋の塔に、幾太の涙に共鳴するように、夕立雨が降り始めていた。