第三章/chapter6 幾太の勇気
ああ、結局納得がいかなかったんだ。
知っていた。自分より直久の方がよっぽど要領がいいことを。よっぽど才能があることを。よっぽど、強いことを。
でも、それでも自分は直久の義兄なんだ。なめられる訳にはいかない。負けるわけにはいかない。そんな思いで、とにかく張り合うばかりだった。
当然のことながら、剣。勉強。遊戯の範疇ですら。
……結局、どれも勝てなかった。そして先日、一番言われたくない相手に化けの皮を剥がされた。「弱い」と。一番言われたくなかった、納得できなかった言葉を、投げかけられたんだ。
GyGy……Gyaaaa!
後方、進次に任せた大鰐の咆哮に、ビクリと身体をすくませながら、走る。アスファルトを転げ回って、夏のTシャツハーフパンツ姿の身体は擦り傷だらけ。
それでもなんとか、よろめきながら目的地に到着する。駅前のスクランブル交差点から東回りに3件目。幾太の住む【心の森】は勿論、近隣の住民や焼き肉店にまで商品を卸す、風見区一の肉屋、安浦精肉店。
この状況なら、挨拶は必要あるまいとシャッターを閉じ忘れられた店舗に踏み込む。
皆がどこに隠れているかは、大体見当がついていた。
それは恐怖か、それともこの部屋の寒さ故か。子ども達は歯をガチガチと鳴らして、最奥にひと塊に身を寄せ合い、動けずにいた。
「安浦さん、やっぱり地下道に逃げたほうがいいんじゃ……」
「へ、平気さ!10年前の【虚獣大災害】だって、俺ぁここに籠って救助を待ったんだ。壁も扉も厚いし、もし虚獣に探り当てられたって、壊せないって諦めてどっかに行っちまうに決まってる!」
なら、こんな所に籠っていた安浦氏はとんだ胆力の持ち主か、それとも人の心がわからないろくでなしに違いない。直久は、恐怖に震える眼で、辺りを見渡した。
ここは氷室。それも、皮を剥がれ、腹を裂かれて内蔵を取り除かれた、これから解体されるであろう肉塊が、ほぼ等身大で吊るされているのだから。
---死んだら、こうなる---
この氷室の寒さが熱を無くした冷たい死のイメージと合わさり、直久をはじめとした子ども達に、明確にソレを連想させる。
いや、あんなにも行儀よく丁寧に解体されるはずはないことだけはわかるのだが。同じ哺乳類として近しいものであった「彼ら」が、命あるものであった「彼ら」が、まるで呪うように、その姿で悠然と死を見せつけている。
「こわいよぉ…」
「クリウス先生……早く助けに来て……」
ついに耐えかねた子ども達が、すすり泣きながら、その不安を吐露しはじめる。そんな声を聞けば、不安は伝播するというもの。直久の視界が、恐怖に滲み始めたその時。
ふと、直久の視界を覆う、冷たいが生気を感じる影が一つ。渓治の手だった。
「………怖いなら、見るな」
その指の隙間から覗く、渓治の横顔。瞳は伏せ、血の気は引き、唇は青く染まりかけているが、少年達にはない、静かに息を殺すような落ち着きがあった。
瞬間、氷室の扉をけたたましく叩く音が響く。その場にいた全員が、絶句する。ここまでか、と。
「みんな!助けに来たぞ!ここ開けてくれ!」
しかし次に聞こえたのは、少年の声。この声は---。
「……幾太?」
木ノ下教諭と安浦氏、渓治が顔を見合せ、安浦氏が観念したように内鍵を開ける。その手に、万が一のために解体用の牛刀を手にしながら。
「みんな!…よかった、無事だな?」
そこにいたのは、紛れもなく幾太だった。
直久は理解できない、といったように目を泳がせながら、同時に訪れた安堵に、その場で腰を抜かす。
が、木ノ下教諭は、そうも行かず、安堵しながらも、こうして窘める他なかった。
「何しに来たの!?どうして、どうして逃げなかったの!」
その声は、決して怒りには満ちていなかった。否、正確には怒っていたのだが、それは、幾太に向けた怒りではなく。
「先生達こそなにやってんだよ!早く地下道に逃げないから、進次くん困ってたんだぞ!オレ達にできるのは、早く避難してミトスの足を引っ張らないことだろ!」
幾太に真正面から切り返され、木ノ下教諭が言い澱み、安浦氏が目を丸くする。
その背中を目の当たりにした、ひと塊になりうずくまっていた子ども達が、動き出した。
「---逃げよう」
「うん。怖いけど、幾太くんと直久くんが守ってくれるよね?」
「たしか、すぐそこだよね?なら、ボクもがんばるから」
立ち上がり、幾太を囲んで子ども達が勇気を奮い立たせる。
そんな輪に、足がすくんで立ち上がれない少年が一人。
「--------」
渓治の目隠しは、すでに外されている。不思議と、幾太のあの姿を直視できない。こびりついた恐怖が、焦点を合わせてくれない。その視界のブレは徐々に直久の平衡感覚を乱していき、嘔吐感さえ込み上げてくる。
「お前……」
異常を察知した渓治が、今度はその背に手を回し、擦り始める。これではとても移動などできない。そう告げようと、顔を上げたとき---。
「---虚獣だ!」
幾太が叫び、虚獣を見据えた幾太以外の子ども達が、恐怖にひきつった叫び声を上げる。
「うわあああああぁ!!!」
表通り店舗正面、そこに、人狼のような上半身、獅子の肢体をした、異形なる虚獣が出現する。
狂ったように牙を剥き、とめどなく溢れる唾液を撒き散らすその姿。
名を、狂獅犬。これなる獣も、ティアマトの11の怪物に数えられる、暴虐の化身だ。
今幾太達がいるのは店の中央、それも四方を壁に囲まれた袋小路だ。今から氷室の出入り口から裏手へ逃げるには、遅すぎる。
「おじさん、これ貸して!」
誰もが絶望に打ちひしがれる中、幾太が無我夢中に安浦氏の手の中にあったものを奪い取る。
牛刀。西洋料理ではポピュラーな包丁の一種ではあるが、何しろ肉屋の精肉に使われているものだ。さぞかし切れ味がいいのだろう、と一瞬で判断した。
「馬鹿!勝てるわけがない!逃げろ!」
「ここで誰かがやらなきゃみんな死ぬ!」
安浦氏の制止を一蹴し、幾太が店舗正面へ駆け出す。
直久は、目を見開きながらそれを見送った。
(なんで……?)
幾太の脳内はアドレナリンが迸り、ともすれば至って冷静に相手との立ち回りを見極めようとシナプスが最速で思考を駆け巡らせる。
「……でかいよな、そりゃ」
gugugu……Wooooooo!
幾太の姿に、飢えに耐えかねたように狂獅犬が咆哮する。いざ、勢いに任せて立ち向かおうとしても、覚悟なき戦意のなんと脆いものか。幾太はそのまま動くことすらできず、懐かしき、育ってきた11年の日々を走馬灯する。
Gyagi!?
その、あまりにあっけない断末魔に、幾太は我に帰った。空を切り、残像のように孤を描くか細い棍は、一撃で狂獅犬の首をもぎ取り、獅子の胴を真上からひしゃげさせる重量の壁盾、それらを操る、黒金と紫苑の、二人の英雄の姿を見た。
片や、決して隆々とした線ではないが、その痩躯には爆発しそうな肉体美を宿す、金属光沢を放つ黒の胸当ての軽業師。黒髪はオールバックに纏め、その端整な褐色の顔立ちをより鋭く際立たせる。
片や、情熱的に開かれた胸元に、花弁を思わせる薄紫のフリルと、それに似つかわしくない銀色の手甲、それと揃いの花の茎を思わせる具足と、純白のレギンスに身を包んだ、たおやかな栗色の髪をサイドテールとして結い上げた戦姫。
「大丈夫か?」
その言葉を聞き届けると同じくする頃、遠く、幾太の名前を慌てて呼びながら走ってくる進次の声を聞いた気がする。どちらにせよ、過負荷だ。シナプスを爆発させまくり、11年に渡る生涯を振り返った少年は、安堵の息を漏らしながら、黒のミトスの腕の中に意識を投げ出した。