第三章/chapter5 進次の秘剣と、歪の少女
幾太の靴底が、アスファルトを蹴る音を聞き届ける。ここからは、進次の舞台だ。
この日のために研鑽を重ねてきた。この日のために、爆発しそうな悔しさを踏み砕き、生きてきた。
左腕の腕章、その紋章の中央に据えられたボタンを押す。この腕章をビーコンとして位置情報を澤館支部に送り、通信会話なくして虚獣の出現を知らせる、ミトスが虚獣との交戦前に行う、大切な業務だ。
いづれこの腕章の位置情報を元に、再度街に警報が鳴り響き、近隣のミトスはここに集結するだろう。
「これでよし。しかし、最初の相手がお前とはね……。10年前は何もできなかったけど、今は違うぞ……」
そう、ここで会ったが百年目の宿敵に行き当たったように呟く。この虚獣こそは、10年前進次が生まれて初めて出会ったモノ。母と共に、その背を向けて逃げることしかできなかった、雪辱の相手だ。
無論、虚獣が言葉をわかるなどと、まして進次のことを覚えているはずなどないと理解していた。
この10年間、虚獣に対して様々な感情を抱いて生きてきた。
それは、人智の外にある異への畏怖であり、
それは、いつか乗り越えてみせると誓った決意であり、
しかしそれは、なぜ奴等のような存在が在るのかという素朴な疑問であり。
---いづれにせよ、あの怒れる大鰐は進次の回想に付き合ってくれるつもりはなさそうだ。
未だ重いこの右腕の剣を、狙いを定める水鳥のように掲げ、左腕はかすかに恐怖に震えながら、その外套を広げる時を待っている。
「---力を貸してね、父さん」
GyGy……Gyaaaa!
アスファルトをその強靭な爪で踏み荒らしながら、蠍尾竜が進次に牙を剥く。戦いの火蓋は、切って落とされた。
首を捻りながら、大顎を器用に真横に開き、咬噛む。その顎の力は、電柱を割り箸のように砕き、乗用車すらただでは済まないだろう。
無論、進次も正面から相手にはせず、上空へ跳躍。狙いを定める。
さて、蠍尾竜。この敵との戦闘での留意点は、たしか、昨日の訓練・座学で学んだばかりだったか。
『この虚獣は、強力な顎による噛みつきにも勿論警戒しなければいけませんが、重要なのは、この虚獣が持つ毒針には決して刺されないようにすることです。
虚獣の特性上、死骸が残らない彼らの毒は、血清を精製することが非常に困難です。
交戦時は、無闇に間合いに入ることはせず、複数人のチームで撹乱し、まず尾を除去することで、毒針に刺されるリスクを減らし、更に体幹のバランスを崩すことが、勝利の鍵となるでしょう---』
夢中で振るった剣は、奇跡的にもその条件を満たしていた。ならばあとは、慢心せずに確実に仕留めるまで。
(---ここだ!)
身体は落下する重力に任せて、ディビッドに仕込まれた右腕の運用を思い出す。
『まずは直線に剣/拳を突き出すことを覚えな。軸回転なんざ10年早い。
お前の拳が剣を抉り立てられるにはまだまだ訓練が必要だし、何よりその剣の刀身で軸回転なんぞ打ってみろ。刀身が傷むどころか、下手すりゃ折れて戦力外通告だ---』
---その、言葉の端々に厳しさはあったものの、正鵠を射ていることは確かだった。
進次が持っている知識だけの拳闘で色気を出しては、確かに今頃この蓮剣の運用を誤り、折っていた未来もあったかもしれない。
狙うはこの蠍尾竜の右顎、その関節部分だ。拳を振りかぶり、一点に突き立てる---!
Gig!?GyAAAAAA---!
狙いたてた場所へ、命中を確認。骨格を割り、肉を裂いた生々しい感触に、一瞬怖気を感じながらも着地し、すぐに引き抜き間合いをとる。
「---よし。これで噛みつきはできないだろう」
十分に距離をとり、蠍尾竜を観察する。その目は度重なる痛みに、混乱を隠せないように右往左往しながら。
(今が、チャンスだ!)
一瞬で、イメージを高める。混乱に煮えた蠍尾竜が、その熱を怒りに転嫁させたら手の付けようがない。
---秘剣。それは、型のないクリウスの剣の内に数少なくある、必殺の連繋だ。
生憎と、今進次が手にしている剣は普段の竹刀とは勝手がちがう。右腕を固定され、その拳の先に剣が生えている形の篭手剣だ。
---あった。この剣でも放てる、とっておきの秘剣が。
正直に言えば、相手が混乱している間に滅多刺しにする選択もあるが、それでは時間もかかり、何度この剣を突き立てれば倒せるかは分からない。
そして、その間に敵が正気を取り戻し反撃してくるリスクを考えたとき、今後のことを考えた時に、秘剣が通用するという証として。
高々と水鳥の嘴のように掲げていた右腕を左肩に抱き、左手を添える。
重心は低く、鰐のような体格の蠍尾竜を切り裂くため、呼吸を深く吐きながら、下半身を蹴り出すために力をためる。
---刹那、決着はついた。
『秘剣 二重水面!』
進次の蹴り出した足が、蠍尾竜を後方に置き去りにし、その切っ先を突き出しながら、駅前のタイルにブレーキ痕を残す。
残された蠍尾竜は、閉じられなくなった右顎の口から一閃、まるで三枚におろされる途中で放置されたように、右半身を裂かれ、叫ぶまもなく霧散した。
からくりは、至って簡単。ミトスの身体で強化された肉体を以て、全速ですれ違いながら、最初に付けた傷を起点に、その身体を切り裂いただけ。要は一文字斬りだ。
ただしその一閃は、大地と、明鏡止水する水面とに波紋すら立てない、全くの水平。それはまるで、水面に写し出される、もう一面の水面を引いたが如く。
故にこその『二重水面』。死線を分かつ、その二つの止水の水面は、互いの鏡に無間を写し出すであろう必殺剣。
「……ふう。流石にあの巨体だと、上下二枚おろしにはできなかったか。それにしても---」
『秘剣を使うときには、できればその名前を詠唱するといい。ルーティーンって、あるだろ?パフォーマンスを発揮するときにする、成功するイメージを固めるあれさ。
人の数だけ、それはあるわけなんだが、一言、言葉にするだけのルーティーンなら、時間もかからないし、身体も反応しやすい。五感の中で、最も頭に閃きやすいのは、個人差はあるが聴覚だからな。』
などと、クリウスは宣っていたし、実際進次の戦闘態勢に合ってはいるのだが。
「ま、少し恥ずかしいのは、仕方ないのかな?」
気が緩みかけていた自分に、喝を入れるように両頬を叩く。戦闘が終了したのなら、急いで幾太と2班のメンバーを救出に行かなくては---。
「---え?」
ふと、視界に入ったその異常を捉える。
なんだ。あれは、なんだ。
そこに佇むのは、天を突く叉の二本角、どこか、半ば剥ぎ取られかけたように赤く膿む、緑の鱗に覆われた四肢、夜行性の動物の持つ、細く縦長の瞳孔を持つ、翠玉色の瞳。
の、幼さを残した、人間の少女。
否、いや。あれが人間であるはずはない。しかし虚獣と言うには、その佇まいはあまりに理性に満ちたように落ち着き、かと思えばあの少女は、進次の姿を凝視し、動揺、焦燥、あるいは感涙さえ入り雑じった瞳で、
「やっと、見つけた」
震える鈴のような声で、そんな言葉を絞り出した。
「見つけた…?僕のこと?」
進次もまた、得たいの知れない彼女に一定の警戒で声が震えながらも、問い返す。
少女が進次の「なにか」を指さそうと、右手を上げる。が、同時に、
「えっ」
少女の体が、崩れていく。進次を指差そうとした右手から、二又に別れた角の先端から。まるで、活動を停止した虚獣のそれのように、目に見えない粒子へと還っていく。
「---湖の神社で、待ってるから」
名残惜しそうに、口惜しそうに眉を潜めながら、 少女が最後の言葉を告げる。数刻と経たず、その身体は先程の蠍尾竜と同じ最後を迎えた。
呆然と、その最後を見送った。あれは、結局なんだったのか。それは進次には測ることはできなかったが、今は。
「うわあああああぁ!!!」
そんなことを考えている余裕は、どうやら無いようだ。今の声が聞こえた方角は---!
「っ!幾太くん、みんな!?」