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虚ろの獣使い  作者: 松風ヤキ
第一章
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第一章/chapter1 ある少年の夏の日常

この作品に興味を示して下さった皆々様。

まずはありがとうございます。私はヤキ。作者の松風ヤキと申します。


この度、初めてこうした投稿サイトに作品を投稿させていただきました。

前提として、不定期更新となりますことをご了承頂ければ幸いです。


今回投稿しました作品は、実は中学生時代から構想は練り続けていたのですが、なかなか自信が持てず、表に出すことはしてこなかった、私の青春と共に育ててきた作品と言えます。

もしも読者の皆々様の琴線にふれることが敵う作品となれば、それは私にとってなにより意味のあることだと思えます。


三文文章、駄文でお目汚しとは存じますが、感想、お気づきのこと等御座いましたら、是非ご一報頂けると励みます。

このようなへっぽこの書く作品ではありますが、是非最後までお付き合い頂ければ、恐悦至極でございます。

 ーーあれは、よく晴れた夏の日だった。

 ジクジクと鳴く蝉の音は、この街の、澤館市(サワダテ)の夏の商店街を暑く、日々の喧騒と入り交じって、夏休みの少年の足を逸らせた。


 どこにでもある日常、取り立てて特筆することのない午後1時が過ぎていくはずだった。


 その凶報(サイレン)が、町を包むまではーー。



 PPPP…PPPP…

 一定のリズムを刻む目覚まし時計のアラームが、少年の部屋に響く。少年はその音の出所を探り、右腕を右に、左に無造作に降り下ろす。


「ん…朝か……」


 少年は寝ぼけ眼で枕元のオーバル型の銀の眼鏡を拾い上げ、寝癖のついた黒の短髪を掻く。

まだあどけなさの残る顔立ちの少年は、カーテンを開き、午前5時30分の曙色の空に伸びをする。


 少年の名は天野進次(アマノシンジ)。この地方都市・澤館市に住まう、どこにでもいそうな18歳の少年だ。


「よっしゃ。一つ、気合いを入れるとしますか」


進次は隣の部屋で眠る同居人に遠慮することなく、いつもの日課(ルーティーン)をこなす。

手早く寝間着から体操服(ジャージ)に着替え、歯を磨き、30分かけてじっくりと柔軟体操をする。布団は昼のうちに干すので、このまま放置。その後、履き馴れた青のスニーカーを履き、1LDKのアパートを後にした。



 進次の住むアパートを擁した住宅と商店の広がる風見区(カザミ)、その三丁目をゆったりと走る。澤館市の全ての学校が夏休みに入った現在のこの時間帯は、子どもたちの喧騒と街の活気はなりを潜め、部活動に急ぐ学生や通勤を始めた車と数台すれ違うのみで、そうした日常の中、進次もまた自分の日常であるランニングに時間を費やす。


「うん、今日も平和だ」


などと、まるで自分の庭を見回るかのように、ぽつりと独り言を漏らす。端的に言ってしまえば、彼の夢は実に小さな、誰でも日常の片隅にある石ころのような、しかし確かに在る願いだ。



「今日も、自分を取り巻く人々が幸せでありますように」



それは、きっと口にするまでもないが、誰かがなに食わぬ顔で宣っていないと、日々の荒波に忘れ去られてしまうモノだろう、とは彼の齢18で得た数少ない哲学だった。

なら、そんな矮小な願いなら自分にも抱き続けられるのではないか…そう予感した進次は、誰に言われたわけではないが……。いや、正確にはその考えの元を教えられた師はいるが、いつからかそんな願いと哲学の元、今日まで生きてきた。


「おっ、進次君。今朝も頑張ってるじゃないか」


「小牧さん、おはようございます」


道すがら、ランニングコースの堤防の脇にある畑の主たる中年男性・小牧氏に声をかけられ、ゆっくりペースを落として停止する。


「今日も先生の剣道教室?」


「いやー、アレを剣道と言ったら、全国の有段者の人達に果たし合いを申し込まれそうですけど…」


進次の本音に思わず小牧氏は確かに、と笑い飛ばし、朝の堤防の穏やかな風が二人の間を吹き抜ける。鼻をくすぐるのは堤防に生えた芝生の匂いと、野菜の青々とした新鮮な匂いだ。


「そうそう、今日もトマトとキュウリが成りすぎでさ、こんなのでよければまた[心の森]に持っていってくれよ。自宅用の作物だっていうのに、なんでかこっちの方が出荷用のハウスものよりすくすく育ちすぎちまうってのは、考えものだよな」


そう言うと小牧氏は、大サイズのレジ袋2つにパンパンに詰められたキュウリとトマトを進次に掲げて見せる。


「あ、じゃあ、少しだけ頂いてしまっても?」


進次は小牧氏にさりげなく交渉を織り交ぜながら堤防を駆け降りる。


「しょうがないなぁ。その代わり、明日の仕事は釈迦力に頼むよ?」


進次は了解、と敬礼し、交渉は成立。進次はおもむろにポケットから中サイズのレジ袋を取り出し、曲りのひどいキュウリや裂けたトマトを中心に、二、三人分ほど小分けに移す。


また堤防を登る。 振り返ると小牧氏が笑いながら手を振っている。それに会釈で返答し、重たい両腕のままランニングを再開した。



 そうしてたどり着いた、風見区一丁目。昨年まで世話になっていた児童養護施設「風見心の森」に足を踏み入れる。

児童数:13名、職員数:5名。「あの災害」で、一時は現在の倍は人数がいたが、今となっては多くの卒業生を出した直後もあってか、そう大きな施設ではない。


「あら、進次くん。おはよう」


「木ノ下先生、おはようございます。これ、小牧さんから」


「あら、悪いわね~。重かったでしょう?クリウス先生の剣道教室、がんばってね」


進次は受け付けに座る木ノ下教員に野菜を預け、中庭を目指そうと昇降口に踵を返す。



「あっ、天野先輩…」


その呼び声に、ふと振り替える。そこにいたのはこの施設、[心の森]で去年まで共に暮らしていた少女、帆引満祈(ホビキ ミヅキ)が高校の制服姿で立っていた。腰まで伸びた黒髪はわずかに癖っ毛がかり、その髪の広がりが小柄な彼女の肢体をよりスマートに見せる。


「おはよう、帆引さん。これから部活?」


進次の問いに、満祈は肩に掛けたビデオカメラのベルトを握りしめながら、こくんと頷く。彼女は映像部、特に今は文化祭に向けて、演劇部との合作で臨んでいる映画作成が佳境なのだとか。


「へえー、僕は映画の撮影の技術とか、よくわかんないけどさ。どう?楽しくやれてる?」


進次がそう問いかけると、満祈は嬉しそうに微笑みながら、再びこくんと頷いた。


「でも、先輩?映画は、カメラで演者さんを撮るだけじゃないんですよ?照明をよりよく活用してカメラ映りをよくしたり、場面に必要な効果音を収録したり、もちろん、演者さんの動きにしっかり合わせたカメラワークを意識して、一緒に走り回ったりもするんです。あとは、そうですね………」


長い髪の奥にある紫苑に近い黒の瞳を輝かせ、進次に自分がやっている活動の奥深さを、知らず語りだしていた。当の進次はというと、面食らったように当惑はしたものの、引っ込み思案な彼女が撮影チームで孤立していないか…などと不要な心配をしていたが、その笑顔を見て、杞憂だった、と胸を撫で下ろす。

満祈がやや顔を上気させながら捲し立てていたことに気付き、恥じ入りながら瞳を伏せて、またおずおずと進次を見つめ直す。


「あ、すみま、せん。私、自分の事ばっかり………?あの、先輩は、今朝も、クリウス先生と……?」



「ん?うん、これは僕の日課だからね。まあ、卒業しといてタダで剣を見てもらおうなんて図々しいけどね」


進次はそう言いながら頭を掻いて、自分の図々しさをはぐらかそうと昇降口に向き直る


………?


その視線の最後に見えた気がするのは、先程まで興奮しきっていた熱量は何処へと言わんばかりの、どこか寂しげに、不安そうに目を伏せる、 満祈の顔だった。


(気のせいかな…?)


「じゃ、僕行くね。帆引さんも車に気を付けてね」


靴を履き終えながら、もう一度振り返り、ヒラヒラと手を振る。満祈はぱっと顔を上げ、微笑みながら会釈して、 進次を見送った。


「やっぱり気のせいかな、うん」


進次は満祈の顔を思い浮かべながら、中庭への犬走を急ぐ。彼女も「あの災害」の被災者だ。どこか、影のある暗い表情の多い彼女だが、ふと、印象深いのは


「そのままでも綺麗な子なんだけど、笑うともっと可愛いのになぁ」


という、本人にはそうは言えないであろう事実だった。


(って、邪念が入った。ダメダメ。あの子は長年同じ釜のご飯を食べた、妹みたいなものなんだから)


進次は両頬を叩いて、眠気と気の緩みに喝を入れて、中庭を目指した。



犬走の路傍に植えられた花々を辿った先の、円形石畳(ストーンサークル)の中庭に、4人の少年少女と共に、竹刀を振るうダークブロンドの短髪の外国人男性が一人。


「クリウス先生、おはようございます」


進次の呼び掛けに、男が竹刀を下ろしながら振り返る。燃える夕陽のような朱の瞳に、左頬に残る古い刀傷。見る人間によっては、とても堅気な人間には見えないであろう。鋭いナイフのような気迫を纏ったその男は、


「おう、天野くん!今朝も精が出るな」


そう、流暢な日本語で気さくに返事をし、手にした竹刀を進次に手渡した。



男の名はクリウス・ブランカー。この名が真名なのかは、誰も知らない。

[白紙者(ブランカー)]とは、現在、世界にたった3人しかいない至高の仕事人の称号であり、万国共通のありとあらゆる職種への適用・着任を許され、代償として、その姓名と過去一切の経歴を剥奪された、白紙の自由業者(フリーワーカー)だ。

 そんな得体の知れない、しかし最高水準の仕事人が、何故この澤館に留まり、あまつさえ児童養護施設の職員などに甘んじているのかは、進次の知るところではない。一つわかっているのは、


「よし、それじゃあみんな!昨日の約束通り、今から俺と天野くんで試合いたいと思う!気付いたことや気になったことを、しっかり見つけながら見ていてほしい!」


「やった!クリウス先生の本気が見れる!」


「クリウス先生、手加減してあげてよ~?」


「アンタたちねぇ、進次先輩がそう簡単に負けるわけないでしょ?」


「そうだよ、進次くんはオレ達の中でもサイキョーなんだぜ?」


にかっ、と白い歯を輝かせながら、少年たちに告げるクリウス。瞬間、わっと湧き上がる4人の教え子達。

 そう、一つわかることは、クリウスの在り方は、裏表のない、指導者の在り方だ、ということだ。教師、というだけなら煙たがられることもあるのだろう。

クリウスはそうした叛意を抱かれにくい、親しみやすさと確かな信念、この人物となら先行きが明るいと人に思わせる安心感……一種のカリスマと呼ばれるモノを持った、指導者の気風を纏っている。

だからこそ、進次も卒業した身でありながら、彼のもとにこうして剣の鍛練に訪れているのだろう…と、懐かしき心の森での日々を思った。


 4人の教え子達が円形石畳から離れ、木陰のベンチに移動したのを見計らい、向かい合った進次とクリウスが構えをとる。

 竹刀。典型的な両手持ちの刀剣型だが、この一振りを片刃の打刀ととるか、両刃のロングソードととるかによってだけでも、大きく戦法は変わるだろう。その上で進次は両手で眼前に竹刀を構える。その様は剣道の基本の構えそのものだ。

 対するクリウスは、竹刀を右手で握りしめ、切っ先をやや斜め下に構え、その刀身に左手を添える。

竹刀の重量を加味すれば、一見右腕にかかる負担が大きそうだが、それがクリウスにとっての最善の構えがそれであることを、進次はよく知っていた。


 最初に一手を打ったのは進次。向かい合う2メートル程の間合いを両足の跳躍で埋めながら、渾身の振り抜きをクリウスに浴びせかける。

クリウスはニッと不敵に笑みながら、それを右に回避。竹刀を振り抜き、着地する進次の左半身に横凪ぎ一閃。

その一撃を、進次が着地と同時に飛び込むように前転し、間一髪かわす。だがこれで、進次は無防備な背中をクリウスに晒す体勢になってしまった。


「甘い!」


進次の後頭部で、竹刀が空を切る音が聞こえる。 誰がどう見ても、その一撃は進次の後頭部に炸裂するものと疑わなかった。


「--のは、俺の方か!」


瞬間、クリウスは振り下ろす竹刀を止めて、仰け反る形で跳躍、後退する。進次が体を翻し、ブレイクダンスさながらに一蹴を繰り出したためだ。


 これが、クリウスの教えた剣。決まった型はなく、生存のためならば蹴り、殴り、必要なら剣さえ投げる無法の剣。成る程、これを剣道などと呼ばしめた日には、その道を極めた達人たちに鼻で一笑されるか、憤慨の果てに道場破りも起きようと言うもの。生憎と、掲げる看板は無い訳ではあるが。

 クリウスが石畳に着地し、再び剣を組み合わすには遠い間合い両者に開く。進次は着地による体勢を整える隙を追撃せんと走る。すでに驚くべき強靭の体幹により構えを整えたクリウスが、進次の切っ先を見定める。


「応っ!」


「せいっ」


クリウスの右腕の一閃を、進次の両腕による渾身の振り抜きが弾き返す。その力関係は明確なはずだが、クリウスの裏技(・・)が戦況を逆転させる。


(出た。クリウス先生の受け流し…!)


それは単純な、しかし極めるは至極困難なからくりだ。いくら剣の師であるクリウスといえど、進次の両腕の振り抜きを右腕一本で剣を弾き飛ばされない膂力はなく、ましてや受け止められるはずもない。

であれば、力を受け流せばいい。クリウスは竹刀と竹刀がぶつかる刹那、力のかかる角度を一瞬で見極め、その方向に進次の(ちから)を逃がすように刀身を滑らせる。こうすることにより、クリウスは片腕の剣術のハンデを補い、長所を伸ばしているのだ。


「くそっ…!」


「そら、このままだとジリ貧だぞ!」


クリウスは剣を振る右腕を止めない。右腕一本で両腕の振り抜きを受けるは困難だが、剣を受け流され、体勢を崩した相手に追撃を二手、三手と叩き込むなら造作もない。否、片腕だからこそ、その速度と変幻は両腕の相手を凌駕する。


「くっ…うぁっ!」


 すでに形勢はクリウス向き。4人の教え子達は息を飲みながらその斬り合いを見つめる。振り下ろし、横凪ぎ、斬り上げ、突き。更には踏み込みに蹴りを織り混ぜる。

苦悶の呻きが上がる。進次は加速の輪舞(ロンド)に対処しきれなくなり、右手をクリウスの剣に合わせながら斬り返し、左手で斬り返せない剣と蹴りを受けながら後退する。クリウスにとって、相手が片腕になってしまったならば、あとは練度の違い、その明暗を見せつけるまで---。


「しまった!」


遂に進次の右手の竹刀はクリウスに弾かれ、石畳の上に跳ね、やがてコロコロと転がり止まった。進次の右肩にはひたりとクリウスの竹刀が当てられ、勝敗は静かに決した。

「うん。だいぶ強くなったな、天野くん。これだけ斬り返せれば上出来。だが、一撃一撃の剣の使い方。大型の刀剣なら叩き斬るしかないが、俺たちの共通の得物は竹刀。刀身全体の命中率はもちろん高いが、振れ幅が大きい切っ先での弾き、鍔の固さを活用した極め。取れる手段はまだまだあるぞ。剣一本とってももっと多面的に、取れる手段はなんでも取る柔軟さを身に付けような」


「……はぁー、また負けた…。参りました」


時間にして3分とかからなかった打ち合い。

4人の教え子達は喝采を送りながら、木陰のベンチから石畳の端で対峙する進次達に駆け寄る。


「さっすが、今日もクリウス先生は揺るがなかったなぁ!」


「おつかれさま~。うわ、天野先輩すごい汗だく」


「進次先輩、どんまい。まあ、アタシならもうちょっとねばってたかな?」


「進次くんなんで負けるんだよぉ!うう、今日のオレのおやつ賭けてたのに…」


口々に感想を述べながら二人を囲む弟子4人。進次は額の汗を拭いながら、ほう、と仰いだ青空に一息を吐く。


直久(ナオヒサ)くん、そんなことはないさ。天野くんの一撃はどれも直に食らえばヤバかったとも。

彰人(アキト)くん、あとで天野くんに麦茶をご馳走してあげてくれ。あ、それと塩飴を一つね。

美音(ミオン)さん、そういう台詞は天野くんに一回は勝ってから言おうな。まあ確かに粘り強さなら天野くんに引けをとらないのは認める。

幾汰(イクタ)くん、誰と賭けてたかは知らないが、先生権限で賭けは無効。ただし、罰としておやつは賭けの相手と半分こずつとする。」


それぞれの感想に、それぞれの受け返しをするクリウス。息一つ乱さないその様に、敗北感に包まれていた進次は張りつめた気を弛め、思わず頬を綻ばせる。


「聖徳太子かよ…さすがに余裕だなぁくそぉ」


「さあ、反省会だ。みんなの意見を出しあったら、ラストの素振り100回いくぞ!」



 クリウスの号令で、円陣を組み石畳で座談する。子ども達はぴーちくぱーちく批評し、クリウスと進次がそれに沿って回答し、時に対処を実演しながら、互いに学び合う。


「やっぱり、クリウス先生相手に先制攻撃したのが悪かったんじゃない?それもあんな風に体勢を崩さないと反撃を避けられないくらい一気に突撃するなんて」


「いやぁ先生相手に後手に回るのはまずいでしょ。進次くんが片手で竹刀を振るえる練度が先生並みならともかく、基本的にアタシたち、両手で竹刀(コレ)を扱ってるわけだし。初撃で決める。生き残ることにおいて体力を温存するためには、それが大事だと思うけど。……これがそれぞれの個性に合った長さや刀身の剣ならそれこそ千差万別、付け入る隙だって生まれるだろうけどさぁ」


 彰人がもっともらしい意見を出しながらも、クリウスの百戦錬磨を知り、施設の四人弟子のなかでは最年長の美音が、この剣術教室の大前提を口にする。


「うん。二人の言うことはとてもよくわかる。確かに一撃で戦いが終わるのならそれが一番生存に近いし、しかしそれを外してしまうのはあまりにリスキーだってこともね」


 クリウスが二人の言葉に頷きながら、美音も語った大前提に触れる。それは、


「そう、何度も言うようにこの剣は、君たちが生き残るためにある剣だ。力を誇張する必要はない。誰かを守るため、なんて大層な理念も、あまりない。戦い方を刻み込んで倒す剣はいらない。今はまず、理不尽(たたかい)に巻き込まれたときに、その状況を切り抜け、生き残るための手段を学んでいるってこと。それを忘れないでほしい」


クリウスが空を差す右人差し指に、生徒達が、進次までもが釘付けになる。

 その円には真剣な空気が流れながらも笑顔が絶えず、それは悠久に続けばいいとその場にいた誰もが思っていたに違いない。


 有り体に言えば、これが天野進次の幸せの形だ。誰もが笑顔を交わせる世界、一つの思いを共有できる人間関係。だがしかし、そんな世界が広くはないことも、少年はこの18年の短い現実の中で思い知っていた。

 ならば、せめて自分を取り巻く人たちだけでも。そう割りきってしまうのを、人はエゴだと言うかもしれない。

 されど、だからこそ「今日」彼は、新たな一歩を踏み出すのだ---。


 最後の素振り100回が終わる頃。時刻は7時45分。[心の森]の生徒達はとっくに朝食を終え、それぞれに学習堂で夏休みの宿題に取り組んでいる頃だろう。

4人の教え子は呼吸を整えながら、よく冷えた麦茶のペットボトルを口に運ぶ。


「うん、今日もみんなよく頑張った!これからも一歩ずつ、一振りずつ丁寧にやっていこうな。さあ、一息ついたら朝食にしよう」


やったー!と歓喜する少年たち。進次は塩飴を口で転がしながら立ち上がり、


「じゃあ、僕はこれで。みんな、また明日」


「ん、もう行くのか……って、今日は、そうか。時間無いんだったな。俺も急いで準備しないと」


クリウスが黄銅の懐中時計を見ながら進次の背中に振り替える。

進次は花の犬走の曲がり角で振り返り、クリウスの一団に一礼する。クリウスと教え子達は、その背に手を振りながら、それぞれの日常に帰って行く。


 空は快晴。おぼろ気な暁の朱はすでになく、太陽はさらに南天を目指すだろう7月23日火曜日、午前7時47分。進次は花の犬走を、火照った身体を冷ますようにゆっくりと歩く。今日は確かに時間はないが、そのくらいの時間はあるだろう。

ミンミンゼミの鳴き始める木々の風を感じながら、進次は夏野菜のビニール袋を片手に、ゆっくりと帰路に着いた。


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