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1.夜遊び

 窓を閉めていても、近くに雷が落ちたことが察せられた。


 何か重量物が落下したような、または爆発したような、鼓膜の奥までじんじんと響くような激しい音がしたからだ。


「ひゃっ」


 そばにいた女が息を飲む気配がした。やだやだ怖い、そう言いながら共有する掛布の中に潜り込んでくる。そして侑生の素肌に自分の肌をすり合わせてきた。


 うっとおしいと思いながら、それでも侑生は優し気な男を演じる。


「大丈夫かい?」


 すると、期待したとおりの甘い声音につられて、掛布の中から女の顔が出てきた。これまた予想通り、満面の笑みを浮かべている。まるで餌につられてワンワンとないてみせる犬のようだ。


「大丈夫じゃない。こわーい。ねえ、ぎゅっとして?」


 上目使いのその白目の部分はやや充血している。まぶたにほどこされている色粉は崩れている。


(今の自分の顔を鏡で見ても同じようにふるまえるのか?)


 そう問いただしたい気持ちはいつもどおりこらえる。どの女もそういうものだ。


 何も言わず、女が望むとおりに抱きしめてやる。真綿でくるむように柔らかく。


 抱きしめたいわけではないが、女がそれを望んでいるし、本当に嫌なことではない。だから抱きしめてやる、そういうことだ。昔であれば、喜ぶ女の様子を見て少しは満足することができたが、今はそんな気持ちは露ほども生じない。


 女が気持ちよさそうに侑生の胸に顔をこすりつけてきた。目を閉じ、口元がきゅっとあがっている。


 無邪気な、少女のような笑み。


(この腕の中にいるのがもしもあの少女だったら――)


 ふいにそんなことを想像してしまい、とっさに腕に力をこめてしまった。


「あん、もっと優しくして?」


 甘えたようなその声、だがそれはあの少女の声とは全然違った。


 そう、あの少女がそんなみっともないことを言うわけがない。もっと清らかで、芯があって、無欲で、澄んだ声をしているはずだ。


(……ではなぜ私はこの女を抱きしめているんだ?)


 本当は分かっている。


 あの少女は皇帝に捧げられるから。

 自分のこの想いが届くことはないから。

 もう二度と抱きしめることはできないから。


 ――もう他に自分を保つ手段がないから。



 *



「えっ。侑生は昨夜から戻っていないんですか?」


 こう良季りょうきの驚きは真正のもので、それが初心に思えて清照せいしょうは笑ってしまった。


「そうよ。でもそんなに驚くこと? 弟はもう立派な成人よ」

「そうですが……」


 思慮深げな顔になった良季の顎から、ぽたんとぽたんと滴が落ちていく。急な雨によって文字どおり水のしたたる良季の様子に、清照が提案した。


「まだ雨はやみそうもないし、ここで侑生が戻るのを待ったらどう? 着替えと温かいお茶を用意させるわ」


 そして良季が何かを言う前に家人に色々と命令していった。良季はそれをしばらく呆然と眺めていたが、やがて観念したように「それでは待たせていただきます」と丁寧に頭を下げた。


 そして二人は今、客室で向かいあって茶を飲んでいる。良季は着替えを借りることを固辞し、乾布だけを望んだ。水分をいまだ十分含んだ着衣のまま、乾布を首にかけて生真面目に茶をすする良季を、清照は愉快さ半分、好ましさ半分で対応している。


「あらためまして」


 清照がにっこりと笑った。


「私は李清照。侑生の姉です」


 良季は両手を膝の上にのせ深く頭を下げた。


「私は高良季。李侑生殿の枢密院事すうみついんじを拝命しております」

「あら、私に敬語なんて使わなくていいわよ。たぶん年のころは同じでしょ?」


 清照の提案に良季はしばし思案する顔をしていたが、やがて小さくうなずいた。


「ところで、清照殿は上の姉上ですか。それとも下の姉上?」


 その言葉に清照が軽く良季をにらんだ。


「いやねえ、下に決まっているじゃない。私そんなに老けてないわよ。それとも良季さんって私が思っているよりも年上なのかしら」

「あ、いや、すみません」


 恐縮する良季に清照が少し目を丸くした。


「あらいやだ。本気にしちゃって」

「え?」

「怒ってなんかいないわよ」

「あ、そうなんですか」

「そうよ。まったく、侑生の部下だっていうのに、そういうところは全然侑生には似てないのね」


 と、良季が居住まいを正した。


「それなんですが……侑生は今も夜遊びをしているんですか?」

「まあ、夜遊びって」


 それはもう三十歳になろうとする目の前の凛々しい男が発する言葉とは思えず、清照はさらに愉快な心持になった。


「そうね、夜遊びしてるわよ。ちょくちょくね」

「ちょくちょくということは、しょっちゅうということですか?」

「しょっちゅうというほどでもないけど、時たまというほど少なくもないわね。ねえ、枢密院事って、枢密すうみつ副使ふくしのそんなことまで把握しないといけないわけ?」


 ずばり問われ、良季がぐっと言葉につまった。が、やがて意を決したかのようにその口を開いた。


「清照殿、お願いします。教えてください」

「ねえ、さっきから敬語になってるわよ」


 ちゃかすような清照の言葉に、しかし良季は応じない。


「教えてください」


 その顔があまりに真剣で、清照は戸惑いながらもうなずくしかなかった。

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