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3.将軍二人

 休日明けという気分がもっとも滅入る日の朝、近衛軍将軍のかく駿来しゅんらいは早々に枢密院すうみついんへと呼び出されていた。ひどく面倒ではあるが、よう玄徳げんとく枢密使すうみつしになってから、枢密院の文官は武官を無下に扱うことは少なくなってきている。だからこの緊急の呼び出しにも必ず意味があるはずで、駿来はいつになく厳しい顔をして枢密使の前へと馳せ参じたのである。


 駿来は玄徳がひどく消耗していることに気づき、おやと思った。


(これは……ひょっとしてひょっとするか?)


 周囲を気遣い、笑みの一つくらい雑作にその顔にのせてしまう玄徳。それが朝議の前だというのに、普段ならば決してみせない弱々しさを取り繕えないでいる。


 駿来のうかがうような視線に、玄徳は「ああ」と、ようやく口角だけあげてみせた。だが髪のほつれや目の下の濃いくまが、どうしてもそれを偽物だと暴いてしまう。


 そう思った駿来の心は手に取るように分かったようで、玄徳は困ったように眉を下げた。そして机を間にして直立不動を保つ駿来に椅子に座るように勧めるや、ここ数日で起こったさまざまな出来事を一つ一つ語っていったのである。



 *



 駿来は知り得たばかりの情報を基にてい古亥こがいが収容されている牢へと一人向かった。


 そこには小さく背を丸めた老人がいた。頭髪は薄く、目の下は窪み、どこにでもいる老人の姿がそこにあった。だが、顔を上げて目が合えば、やはりその老人は鄭古亥だった。染みついた風格が、自分と同じ近衛軍将軍という地位にいた男、そして武芸者のものだったからだ。


「鄭殿。俺に用があると聞いてやってきました」


 駿来は誰もが問いたくなるような事柄には何も触れず、ただここへ来た用件だけを述べた。


「おお、すまんな」


 古亥は今日もはつらつとしている。


 駿来は古亥とは武官時代含めてこれまで直接関わったことがなかった。駿来が若くして時の皇太子である英龍えいりゅうの武芸の指南役に任じられたとき、古亥はすでに近衛軍第一隊の隊長で、皇帝に付き従い遠征によく駆り出されていたからだ。


 当時の皇帝の大きな責務の一つはいまだ不安定さのある地方をよく従えることだった。逆に駿来は後宮の警備にあたる第四隊所属でもあったから、後宮から、皇太子である英龍から離れることはなかった。それゆえ、二人はそれぞれが従うべき皇族にもっとも近い武官ではあったものの、個々人でのつきあいを始める機会も状況もなかったのである。


 なお、英龍が三代皇帝に即位したときのこと。古亥は近衛軍将軍に、駿来は第四隊の副隊長に昇格した。この頃になると諸外国からの要人を警護する任が増加傾向にあり、当時の第一隊には過負荷となっていた。それゆえ、英龍は信の厚い駿来、そして第四隊の一部を遠征時に多用するようになった。――それが第一隊の士気に影響し楊武襲撃事変の火種の一つとなったことなど、いったい何人が気づいていることか。


 その稀有な人物の一人である古亥は、こうしてようやくきちんと駿来に向き合えたことで、なんとも感慨深い気持ちになった。


「実はな。郭将軍にはえん仁威じんいのことを少し気にしてもらいたいのだ。頼めるか」

「袁がどうかしましたか?」


 駿来が示した表情の変化に、古亥は頼もしさを感じた。


(こいつになら任せることができそうだ)


 昨日、古亥は玄徳に己の胸の内を語り、この人生に悔いなしと満足するに至った。


 するとだ。自分によく似た男、仁威のことが急に気がかりになったのだ。


 仁威は昔の古亥によく似ていた。


「昨日、儂が敵を始末した直後に、袁の奴がちょうど儂の家にやって来たんだ」

「そ、それは本当ですか?」


 駿来の動揺は当然のこと。この事実を古亥は玄徳には説明していないし、昨日の一事件に仁威が関係するなど駿来には想像もつかなかったからである。珪己を追ってやってきた芯国人は自分が殺した。それしか古亥は玄徳には言っていない。


 なぜ言わなかったのか。それはこの殺人という罪を自分一人で背負うためだ。仁威の名を出せば、事件の証人として仁威が裁きの場に招へいされてしまう。そうなると古亥は珪己を護ることができなくなる。仁威は上手に嘘をつける人間ではないからだ。


 それは今目の前にいる駿来も同じ。だが駿来にはこの事実を伝える必要があり、だから古亥は駿来の目を見てしっかりとうなずいてみせた。


「ああ本当だ。だがこのことは他言無用に願いたい。袁は珪己嬢のことを探して儂の家にまでたどり着いただけのようだったしな」

「……そうですか」


 それだけ言い、それから駿来はつい言っていた。


「……あいつ、嫌そうにしていながらもちゃんと上司やってたんですね」

「嫌そうに?」

「嫌そうというと語弊があるかもしれません。だがあいつは楊家の嬢ちゃんの上司となってからひどく苦しんでいました。鄭殿は当然ご存じでしょうが、あいつは八年前の」

「八年前の楊家の襲撃のことで珪己嬢にどう接していいか分からなくなった、と」


 正確に言葉を継いだ古亥に、重々しく駿来はうなずいた。


「俺はそんなあいつに偉そうに説教垂れたり、時には殴りつけて目を覚まそうとしました。今思うと、本当に馬鹿ばっかやってました。……だけどあいつは俺なんかよりもよっぽどできた上司だったんですね」


情けない顔で笑ってみせた駿来を、古亥は自分には批判する資格などないと思った。自分の方が上司としては失格だったからだ。部下の不満をくみ取ることもせずに放置し、最終的には彼らの命を己が手で奪ってしまったのだから……。


「それでな。一つ頼まれてくれないか」

「ええ、何でも」


 こんなふうにためらいもなく首肯してしまう駿来に、古亥は少し笑いたくなったがこらえた。強い悲しみを感じると、時には愉快になることもあるのだと、また新たな発見をした。駿来は自分のことを卑下していたが、古亥から見れば十分立派な上司であった。


 古亥は声が震えそうになるのを押さえながら、その想いを語っていった。


「儂が最後に見た袁はやけに思いつめた顔をしておった。あいつも儂と同じで武芸者としての気位が人一倍強い奴だから、そうやって自分を追いつめすぎる点がちょっと気になってな……。少し肩の力を抜いて物事にあたるほうがいい場合だってあるんだが、あいつはそういうさじ加減が分かっていない不器用な奴だから」


 同じように、不器用に、愚直に、己をなげうって楊家を護りきった古亥は、だからこそ、仁威にまで同じ道を歩ませたいとは思えないでいる。自分は確かにここ最近の一連の行為に満足している。もう一度同じ状況が起こったとしても、きっと寸分たがわず同じ道をたどるだろう。


 だが、このような険しい道の選択は自分だけでもいいように思うのだ。古亥は自分の幸福が他人にとっては痛々しく見えることを理解している。この世には万人にとっての幸せなどないのかもしれない。だからこそ、少しでも多くの賛同を得られるような平和な道を、仁威には選ばせてあげたほうがいいように思うのだ。


 昨日、古亥は仁威に珪己のすべてを託した。すべてを言葉にせずとも、きっとその意志は十分に伝わっているはずだ。


 だからこそ今になって心配になっている。


 ――同じような道を歩んでその身を滅ぼさないか、心配になっている。


 それは同じ武芸者としての道を追うように歩む仁威への、古亥なりの思いやりでもあった。


「誰かを護るということは生半可な覚悟でするものじゃない。だが、あまりに思いつめるのもよくない。袁は儂と同様に八年前の事変に囚われておるし、その、心配でなあ」

「ええ、よく分かりました。俺の方で今後よく見ておきます」


 駿来が請け負い、それにようやく古亥がほっとした顔になった。


 これですべての懸念を払しょくでき、古亥は牢にいるとは思えないほどに満ち足りた顔になった。


 だが、すべてを整理し納得した古亥にも一つ見えていなかったことがある。


 古亥も人の子、昨日の事件にはやはり冷静さを欠いてしまった部分があったのだ。人を殺めた罪を自分で背負うこと、珪己と仁威を逃がすこと、その二点に意識が向いてしまっていた。だから珪己の様子の変化に気づいてやれなかった。目を見て会話をした仁威については、その表情の違いに気づくこともできたのに、珪己が受けた衝撃――初めて人を殺めたときの崩れ落ちるような感覚――については気づいてやれなかった。


 その少女の目を見て、見られて――自分の心の弱さや最後のためらいを見とがめられたくなくて、古亥は珪己のことを真正面から見ることができなかったのである。

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