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2.愛の結末

 そして英龍えいりゅうは文の指示に従い、後宮、きん昭儀しょうぎの室へと来ている。


 この室に入るのはこれで二度目、だが闇一色の室内の様子には一向に慣れることはなかった。この非日常な闇が自分を昨夜の夢の世界へと誘ったかのように思え、そう考えただけで闇一つにすら憤りが湧いてくる始末だった。


 金昭儀は今日も上座にて、白くたなびく長髪をまとうようにひっそりと佇んでいる。


 英龍は自分から声を掛ける気にもならず、無言で金昭儀に鋭い視線を投げた。すると、昨日あれほど無表情に徹していた金昭儀の顔に、ふいに笑みが浮かんだ。白粉で塗ったかのような血の気のない唇の端がきゅっと上がる。


「陛下。昨夜はおめでとうございます」


 それに英龍は簡単に眉をひそめた。表情を作る気にもなれない。


「何がめでたいのだ」

「陛下のご決断により趙家は凶の星から解放されました」

「ああ……凶の星か」


 言われ、英龍はようやく金家の預言のことを思い出した。そういえば、もとはこの側妃の預言に従ってあの寺へと行ったのであった。


「で、吉の星とは、余が女を抱けるようになったということか。それで趙家ちょうけは子孫を増やすことができるようになって万々歳、とな。なんとも馬鹿らしい話だ」


 皇帝であるから、女を抱き子を成すことは重要な責務の一つである。が、今の英龍には、昨夜の行為をそれだけのことと捉えることができないでいる。


 あれはまさしく愛の行為だった。

 愛を伝え、愛を与えるための行為だったのだ。


 それがまさか、自分が女を抱けるようになるための試金石のように昨夜の一件が用意されていた、とは。


 金昭儀の言い方はそうとしか聞こえなかった。


 金家の預言はまるで英龍を、そして珪己けいきを人とみなしていないかのようだ。二人、まるでこの世を動かす機能の一つのように、きちんと動作するかどうかを試すために使われてしまったかのようだ。


 それは英龍が初めて知った尊い愛を侮辱されたも同然だった。


「……そなたは余に仕えているのではなく趙家に仕えているのだな」


 まるで闇色の空に一つ浮かぶ星が燃えたぎるかのように、室内で唯一の男の身を、揺らぐ怒気が覆いはじめた。


 赤く燃える星は、自身がその炎で焼き尽くされてもかまわないとでもいうかのようだ。


 星は宇宙のために存在しているのではない、その星はその星自身が光り輝きたくて生まれたのだ――と。


 目の見えない金昭儀は、その熱の波動でもって英龍の様子を知った。波動の質で何を語りたいかを聴き取ること、それこそが金家の易者の有する才である。


 理解し、金昭儀がもう一度笑った。


「陛下は非常に稀有な方。その身に太陽と月を有しておられる」

「……」


 言葉に出さずとも、英龍の睨みつける鋭い視線は、やはり金昭儀には理解できる。


「私が何を言っているか、陛下にはお分かりにはならないでしょう」

「ああ、当然だ。昨日からそなたの言うことは抽象的すぎる。そして余はそなたの言葉を二度と聞くつもりはない」

「それは私の言葉が陛下のお心を傷つけたからでしょうか?」

「自覚はあるのか」

「……はい。申し訳ありません。私は星を聴くように人の心を聴くこともできますので」


 だからこそ、金昭儀はこうして後宮の片隅で、わずかな女官とともにひっそりと暮らしている。星の声だけを聴きたいのに、人がそばにいると、彼らの心の動く様が障害となってしまうからだ。そうして幼き頃から特定の人物のみを侍らせて生きてきたため、人の特性について知る機会なく、こうして成人になってしまった。


「私は人の心に疎いため、陛下の心を半分も理解できておりません。今私に分かるのは、陛下を傷つけてしまったということです。ですが陛下、ご安心ください。その心の痛みはいつか必ず昇華するでしょう。月の御子があらわれるとき、陛下は……」

「もういい!」


 突然、英龍が立ち上がった。


「もうそなたの話はこりごりだ。人の心も分からないそなたに余の道を、人の道を示すことなどできようもない!」


 それだけ言うと英龍は背を向け、暗闇ばかりの室から去っていった。


 残された金昭儀はといえば、人の理を知らないがゆえにその目を伏せるしかなかった。



 *



 夜分遅く、疲れが極限に達した龍崇りゅうすうは自室にてうつらうつらとしていたが、室の外から遠慮がちに声を掛けてきた侍従の声に目を覚ました。


「どうした」

「侍従長が龍崇様にお話があると」

「……通せ」


 室に入ってきたのは腰の曲がった老人だった。髪は半分もなく、残るすべては真っ白に染まっている。太い眉も白く染まり、顔中に深い皺がある。残るわずかの人生を、この男は侍従の長としてこの国に捧げていた。


 侍従長であるこの老人、すでに老い先を理解していることもあり、華殿の多くのことを若い者たちに委任している。協調すべき華殿の長である龍崇に対しても同様で、まだ若い龍崇の采配に異をとなえることもせず、一日の多くを自身の室で書類の決裁、承認に費やす日々を送っていた。


 そんな男が夜分、わざわざ皇族たる龍崇の自室にやってきたということは、明らかに秘密裏に会話したいことがあるということだ。


 龍崇はひどく疲れていたが、それでもこの年配者への尊敬の念を持って丁寧に接した。


「どうした。何かあったか」

「昨夜、陛下が城の外へ出られたことをご存じでしたでしょうか」


 しわがれた声は聞き取りにくい。だが、それだけではなく、龍崇はすぐにこの老人の言葉を理解できなかった。


「……陛下が? 城の外へ?」


 龍崇の驚きが真正のものであることを察し、老人は「ご説明します」と深々と頭を下げた。


「金昭儀が動きました」

「何? 金昭儀が? ということは、それは預言によるものか」

「御意。預言の内容は明らかにされておりませんが、金昭儀の配下の者の手筈により、陛下は昨夜を城の外で過ごされたようです」


 二人は金昭儀が趙家にとってどのような存在かを熟知しているわずかな人間である。歴代の皇帝にとって、金昭儀とは稀有な易者の力を有する女人のことだ。抱くための女ではなく、皇帝に預言を与えるための女。金昭儀の言葉は絶対であり、皇帝ですらその意に従わなくてはならないという。


 金昭儀の住まう離れには、特別な、外部と繋がる水路が用意されてある。王美人が密貿易で利用していた陳腐で分かりやすいものとは質が異なり、金家配下でないと水路の扉を開閉することもできない代物だ。ただし、金昭儀の真実の姿を知るものはごくわずかで、またその水路はうまく隠匿されているので、この手段を利用されると誰も後を追うことすらできなくなる。誰がいつ通ったか、記録はとられていない。記録に残すことは初代皇帝の時代から禁じられているからだ。それは趙家と金家の信頼の証ともいえた。


 金昭儀が動くとき、事後報告として、侍従長と華殿の長の任に就く皇族には連絡が来ることになっている。が、言い換えれば、ただそれだけの仕組みしかないのである。


「どこに行かれたのか分かるか?」

「いいえ。どこへ何をしにでかけられたのか、慣例により知ることはかないません」


 金家の易者の預言は皇帝ただ一人が知ればいいことだという。


 頭では理解していても、異母兄を想う龍崇はつい訊いてしまう。


「金昭儀の女官から訊き出すことはできないのか」

「それは無理でしょう。金家とはそういうものですから。ただ、今日の金昭儀はいつになく快活であったそうです」

「なるほど。つまり金家の預言により善きことが起こったということか」

「もしくは災難を取り除いたか。まあいずれにせよ、趙家にとっては一安心ということでしょう」


 そう言って侍従長は去り、龍崇は一人あらためて敬愛する異母兄について思いを巡らせた。


 楊珪己への愛しさを胸に抱きながら、一人宮城の外へと導かれていった英龍――。


 昨夜はひどい雨だった。


 そのような天候の下、真夜中に、英龍は預言に従って行動していたのだ。


 小さな舟に身をひそめるようにして乗るのも、飾り一つない馬車に乗るのも初めてのことだったろう。


 ひどく心細かったのではないだろうか。


 そして朝になって宮城へと戻り、龍崇によって初めて抱いた愛が永遠に失われたことを宣告され――。


 龍崇はこの異母兄に人としての幸福の幾分かでも与えたかった。皇帝として正しく清廉に生きるだけではなく、愛を知らないと言った英龍に愛を与えたかったのだ。だが英龍は昨夜はもとより、今日これからも、愛を得ることのない皇帝たる道を歩んでいかなくてはならないのかもしれない……。


(……私もお供します。私もあなたの道を共に歩きます)


 望んだ愛が得られなくとも、せめてこの身を捧げることであなたの心が軽くなるのであれば……。


 龍崇は誓わずにはいられなかった。


 この身を捧げると誓うことで、英龍に少しでも幸福を与えたい。

 一生を覇道に捧げざるを得ない英龍に、少しでも――。


 だから誓わずにはいられなかったのである。

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