4.湧き上がる歓喜
珪己の瞳が迷いによって揺れ、視線がやや下がった。
その瞬間、イムルの双眸がかっと見開かれ――駆けるように珪己の正面へと距離を縮めてきた。
豪快な足音、風を切るような動作。
珪己が視線をあげたときには、イムルはすでに自身の間合いの内に珪己を取り込んでいた。ただ、長身であるがゆえに手足が長いイムルにとってはそうでも、逆である珪己にとっては相手に攻撃することのできない、極めて絶妙な距離だった。
油断した、と思う間もなく、イムルがその両手を伸ばしてきた。
当然珪己はすり足で下がった。後退し距離をとるしか道はない。
が、イムルもまたその長い歩幅でずいっと前に出てくる。
そうすれば二人の間の距離はさらに縮まる。
珪己はさらに数歩下がった。だがイムルによる同数の前進によって、珪己はあっけなくその両手に捕えられてしまった。
二の腕を掴まれ、腰を引き寄せられ、二人の間にあった距離のすべてが消滅した。
イムルの青い瞳の中に、珪己の――情けない顔をした少女の顔が映りこんでいる。
イムルはそれまでの喜色を掻き消し、まるで神に拝するかのような厳かさでもって珪己を見下ろした。ゆっくりと堪能するように珪己の顔を眺める柔らかな瞳は、愛しい者を見る男のようだ。
だから珪己は動けなくなってしまった。イムルの逃れようもない腕力だけが理由ではなく、珪己はその瞳にまたも囚われてしまっていた。どれだけ愚鈍な自分にも理解できてしまうくらい、今、この青年は自分をを求めている――。
渇望していた運命を手中にしたという達成感が、イムルに深いため息をつかせた。
「ああ……。これでようやく一つになれるな……」
このような時であるというのに、イムルを通して、珪己は初めての口づけをしたあの夜のことを思い出していった。
この道場で李侑生に向けられた瞳と、今目の前にあるイムルの瞳。
それぞれの虹彩の色は違う。
なのにまったく同じだった。同じ望みだけを映し出していた。
連鎖的に二日前の夜のことも思い出された。
力の限り珪己を抱きしめ涙をこぼした侑生のことを――。
『あなたに会いたかった……。あ、会いたくて、会いたくて……。どうして今日まで会わずにいられたのだろう……』
そう言って震えた侑生の体。
珪己は今もそのときの感触を覚えている。
『あの夜から、あなたのことをずっと考えていました。ずっとずっと考えていたのです……』
イムルの瞳を見つめながら、珪己はその向こう側に侑生と過ごしたいくつもの夜を見ていった。後宮の庭園で、開陽の街で、道場で……。その度ごとに少しずつ侑生の様子は変わっていかなかったか。だが検証することに意味はないのだろう。最後の夜に侑生が示した態度こそが、今の侑生の意志なのだから。
(この人も侑生様も、私が欲しいと思っている……)
(どうしてかは分からないけれど、とても切実に私のことを欲しいと思っているのは同じだ……)
ここ最近劣等感にさいなまれていた珪己にとって、それは驚くべき事実だった。感違いや衝動とは到底思えないほどの熱情が、確かに二人の青年の瞳に映し出されている。
そして一つの重大な事実に気づいた。侑生を拒絶し悲しませたのは自分のほうではないか、と。相手を傷つけていたのは侑生ではなく自分のほうではないか、と。その解釈は刃に変貌するや、問答無用で珪己の心に振り下ろされた。
(私ってなんて嫌な奴だろう。最低だ……)
心から血が流れだす。
刃は今も深々と心に刺さっている。
だが逃げることはできない。心はここにあり、振り下ろしたのは自分自身だ。心を捨てることも自分から逃れることも――誰にもできはしない。
(きちんと相手のことを知ろうともしないで、自分を護ることばかりを考えていたからこうなったんだ……)
自分が一番かわいくて、絶対に傷つきたくないと鉄壁のごとき鎧を心にまとっていたから、だから侑生の真摯な心を感じることができなかったのだ。あれほど分かりやすく伝えてくれていたのに……。
(……私はだめな奴なんだ。そうだ、そうなんだ……)
回り回って、結局珪己が行き着いた場所は同じで――自分という存在に悲しくなり目を伏せた。
あれほど勇ましかった珪己がおとなしくなったことで、イムルが満足げにほほ笑んだ。とうとう自分を受け入れた、そう感じたのだ。
イムルは珪己の二の腕から手を離すと、そのままそっとうつむく少女の頬に指先で触れた。触れた瞬間、びくりと腕の中の細い体が震えた。かまわずそのまま顎を上げ親指でもって少女の唇に触れる。その下唇の中央部分には治りかけの切り傷がある。そこに少しの力を加えると、傷はあっという間にほどけて赤い血がにじんだ。
ぞくりとした。
その血の鮮やかさに、イムルはなぜか肉食獣のごとく歓喜していた。
半ば茫然としつつイムルのなすがままになっていた珪己であったが、流血に喜色を示すこの青年の異常さにあらためて恐怖をおぼえた。
たとえ甘美な熱情を見せていても、やはりこの男は狂っているのではないか――?
しかし動けなかった。腕力はもとより、侑生を拒絶したことの負い目が、今さらながらに珪己を責めてくる。だから同じ瞳をもつこの青年を全力で否定できなくなっている。二人は同一人物ではないと頭では理解している。だが心が納得しない。
力がでない。抵抗できない。
抵抗したいと思えるほどの価値を自分に感じられない。
(抵抗する価値が……自分にはない……?)
もちろんイムルは狂っているつもりなど毛頭ない。この唇に現れた血は自分の体に流れている血と同じ色なのだから、喜ばないほうがおかしいではないか。
この血を早く取り込みたい。取り込んで早く一つになりたい。その強い願いがイムルの頭の中を支離滅裂に暴れまわっている。命を得たいと願うことは生物としての本能だ。
イムルはその本能に身を任せ、飢えで乾く唇を珪己へと押し付けた。
触れた瞬間、さらなる喜びがイムルの体中を駆け巡った。
今日、ここに来てから、イムルはこれ以上はないほどの喜びを享受している。十分すぎるほどの喜びを感じている。だが今、予想をはるかに超えて、たかが唇が触れただけのことで、途方もない喜びが体の奥からせり上がってきた。
口内に流れ込んできたのはこの少女のわずかな血。舌がそれを敏感にとらえた。金属的な味は誰もが有する血液そのもの、なのに今は供物のごとく美味に感じる。
(神とは本当にいるものなのか……)
この世の神秘の一つを知り得たかのような心地よい陶酔は、これまでの半生を苦行としか捉えていなかったイムルには未知の経験だった。だが、目をつぶり光悦としていたイムルの感覚は、唇に生じた突然の痛みによって現実へと引き戻された。
唇を触れ合わせたまま目を開くと、下の方、珪己がぎりぎりと睨みつけていた。涙に濡れたその瞳の奥には燃え盛る炎が揺らめいている。
珪己は己の中にあるためらいに戸惑いつつ、それでも、やはりこの青年に奪われてもよいとまでは思えないでいた。自分の意志に反してこの身を奪われるのはどうしても我慢できなかった。それゆえの怒りだった。乙女の矜持といってもいい。
イムルの口内に力強い金属臭が漂った。その下唇には珪己の比ではない深い噛み痕ができている。そこからだくだくと出血している。
まったく遠慮のない攻撃だった。
しかしイムルにはそれが嬉しかった。
自分自身に対して遠慮しないのは当然のこと。そして己が血が珪己に取り込まれること、二人は本当の意味で一つになれる――。
より味わうために、イムルは親指と人差し指で珪己の頬を顎の方から掴んだ。指先にゆっくりと力を込めていくと、閉じられていた珪己の口が上下にじりじりと開いていく。そのまま両の指に力を入れ続け、その口が二度と閉じられることがないようにして――。
さらに口づけを深めていった。
口内に割って入った舌が、少女の唾液や舌、歯、頬の裏側の肉に触れていく。
そのたびにイムルの心は震えた。
(まるで楽園にいるかのようだ――)
味わったことのない果実をいくつも見つけて口に含んでいるかのような至福のとき――。
両指で挟む少女の頬に力が込められた。どうにかして口を閉じようと懸命に努力している。密着した体を少しでも離そうともがいている。自由のある両手でイムルの胸板を押している。ときに拳でだんだんと殴打してくる。
だがイムルはまったく力を緩めない。
それも当然だ。今この手にしているのはようやく見つけた運命の半身で、そして今味わっているのは命の滴なのだから。
湧き上がる歓喜に身を任せ、イムルは暴れる少女をひたすら味わい続けた。