1.際限のない怒り
朝、龍崇を怒鳴りつけてから、英龍は昼餉の時間になっても憤怒の息荒く一人自室にこもっていた。腹は減らない。減るどころか、気を抜けば何かが口から出てきてしまいそうだった。
しかし落ち着かない。じっとしていられない。
広い室の中をうろうろと歩き、椅子に座り、また立ち上がり……。そうした意味のないことを延々と繰り返している。何度か室の外から侍従に声を掛けられたが、そのすべてを無視し、しまいには「余がいいと言うまで誰も声を掛けてはならぬ」ときつく命じたほどだった。
そのような横暴なふるまいをする英龍は初めてのことで、侍従らは皆一様に震え、また心配で胸を痛めていた。だが皇帝の命令は絶対であり、今日は休日ということもあって急ぎの用件はひとまず何もなく、であれば誰もが英龍の命に従うほかなかったのである。
英龍はこれほどまでにいらいらとした気持ちになったことがなく、そんな自分をひどく持て余していた。政務においても、一癖ある年上の皇族相手でも、思い通りにならない天候を相手にしても、それらすべてを「そういうこともあるものだ」「仕方ないことだ」と受け止める術を知っていたからだ。今の自分のような心境になることがある、人としての性質を、英龍はついぞ忘れてしまっていたのである。
何もかもを自分の思い通りにすることはできない。
しかし、自分の気持ち一つであれば自分の思い通りに制御することはできる。
心の持ちようによってものの見方はいくらでも変えることができ、であれば可能なかぎり前向きに物事をとらえた方がよいに決まっている。
理屈からも、心身の健康のためにも、「そうするべきだ」と英龍は知っていた。
が、これはいったいどうしたことか。
失態を犯した異母弟・龍崇を呼び出し、再度怒鳴りつけてやりたくなる。
だが次の瞬間には、昨夜抱いたばかりの少女を娶るという官吏に、妬ましい気持ちが湧き上がってくる。
そして、あろうことか、愛する少女に対しても問いただしたくてたまらなくなる。
(婚約者がありながら、なぜそなたは余に身を委ねたのだ……?)
理由は当然、芯国人の元に問答無用で嫁がされることを恐れていたからだ。本人もそう言っていたではないか。分かっているのに、それでも英龍はこの胸の鬱憤を珪己にぶつけたくなる。
(余が戯れにそなたを抱こうとしたとでも思っていたのか?)
(一夜の褥に侍ることで、皇帝たる余の権威を利用できるとでも思ったのか?)
だがそれらの罵詈雑言は、思いついた瞬間に恥辱とともに押さえつけていく。それも朝から繰り返していることだった。起こったことを今さら責めても仕方ないし、珪己の怯える様子を想像できてしまうからだ。
本当は誰も責めたくはない。
ただ――。
自分一人が空回りしていたかのようで、悔しいのだ。
この愛が幻のものとして葬りさられようとしているのが、悲しいのだ……。
英龍の怒りは、彼の人間たる証を傷つけられたことによるものだった。
物心ついたときから、英龍は皇太子としての扱いを受けてきた。そして英龍が住まう後宮には、すでに父である二代皇帝・趙大龍の保有する数十人の妃が共に住んでいた。正妃はもとより、側妃の筆頭である貴妃以下にも豪華絢爛な女を大龍は多数揃え、英龍は日夜騒がしく華やかに彩られた後宮しか知らずに育った。
英龍は正妃が産み落とした長男であり、正統なる皇太子だった。しかも、大龍は正妃との間には英龍という一人息子しか成さず、他には下位の側妃との間に数人の娘を作らせただけだった。いや、実際は過って身ごもらせてしまった、というのが正しいのだろう。今の英龍は知っている。父は権力を掌握する方法の一つとして有力者の血縁たる女を後宮に集めただけだったのだ。
父が崩御し、入れ替わるように英龍が皇帝に即位し、年号が貴青に改められ――。
父のものであった妃らは皆実家に戻るか寺に隠匿した。英龍の妹たちは、その時には既に主要な貴族のもとに嫁がされていた。派閥争いのある後宮において、英龍は半分血の繋がった妹らと接触することは元々なかった。今も年始等の行事でまれに顔を見る程度の薄い関係となっている。
そうやって、英龍は純然たる皇帝としての自分しか知らずに生きてきた。
実の母とは心を通わせられるような日々を過ごしたこともなく、毎日の食事は毒見後の冷えたものを一人つつき、それを食べて成人になった。後宮には女官の子も幾人か住んでいたが、幼馴染で側妃ともなった胡麗以外には、皇太子たる英龍に素直な心でもって接することはなかった。だがそれこそが英龍の知る普通の世界、ありふれた世界だった。
麗と英龍の出会いは奇跡のようなものだった。天陽園――後宮内にある庭の一つ――で、偶然二人は出会い、波長が合い、身分の差をものともせず語り合うようになったのだから、奇跡としか言いようがない。
英龍にとっての麗とは運命共同体だった。
いつかきっとこの狭い宮から出て広い世界へと旅立とう。そう語り合い、救われたように微笑む麗に、英龍もまた救われていた。二人は、二人揃ってお互いの存在に救われていたのだ。
皇太子時代には女の抱き方を覚えさせられた。座学で事前に学んでいたことを実践させられただけのことで、心地よさや快感といったものは感じず、ただ早く終わらせたい、その一心だったことを覚えている。そうやって、英龍は生活のすべてを皇帝としての道を歩むための手段として利用され続けてきたのである。
だが、こうして自分自身を振り返ることで、やはり昨夜の出来事が貴いものであったことを英龍は再認識してしまうのだ。
抱きしめる、ただそれだけのことで、もう泣きたくなるくらいに感動する自分がいた。胸が熱くなり、苦しくなり、なのに不快でもなく、それどころか「生きていてよかった」と陳腐な台詞が頭に浮かぶようなひととき――。
それであらためて確信したのだ。
麗と珪己、二人の女人へ抱く想いがまったく別物だということに。
英龍は麗に初めて会ったとき、静かに涙を流すその同じ年代の少女をつい抱きしめてしまった。抱きしめて、自分にできることならこの子を助けてあげたい、そう思った。
その思いが今も生き続けている。
それは愛というよりも慈悲だった。
強者から弱者への一方通行の感情だ。
そのような関係が続けば、自然と弱者は強者に対して感謝の念を抱くようになる。そして二人はかけがえのない存在となる。が、それはやはり愛のみの尊い関係とは言い難かった。
しかし、珪己の肌と自分の肌が触れ合ったときは違った。
薄い皮膚を通して伝わる温かさが、英龍に震えるほどの興奮と歓喜を呼び起こしたのだ。わけもなく誰かに感謝をしたくなるような、こうして生まれてきたことを感謝したくなるような……。
麗とは、お互いがひどくひんやりとしていたことを覚えている。その冷たさにお互いびくりと震え、目を合わせ、そこに戸惑いと義務しかないことを感じたことを覚えている……。
唇を合わせるという行為は、英龍は誰からも学んでいない。皇帝であるから、子を成すための直接的な行為しか知る必要はなく、あとは女の方が、学んだ、いや学ばされた知識を生かして行動していくのに合わせていればそれで事が足りたからである。英龍は初体験の際にこの行為に何ら興味を持てない自分に気づいていた。だからそれ以上を学ぶ機会を自ら放棄していた。
それでも昨夜、引き寄せられるように珪己に口づけたのは、そこに何かがあると本能が知っていたからだ。泣くのを我慢するように小さく震える珪己の唇に、気づけば、英龍は唇を寄せていた。触れ合わせ、心が満たされ、吐息を交換するかのように長く口づけ、英龍はこの行為に愛を伝える力があることを自ら知ったのである。
それからはもう夢のようだった。
本当に夢のようで、今でもまだ鮮烈に思い出せる。
だが、あの一夜だけで自分が大きく変わってしまったような気もする。
――しばらく放心していたようだ。
英龍は起きながらにして、昨夜の夢に意識を持っていかれていた。
はっと気づけば、そこは自室で、すでに昼も過ぎ、夢はもう夢でしかなかった。
するとまた怒りが湧いてくる。
現実にそこにあったはずの出来事を夢で終わらせようとする存在が、腹立たしくて仕方がなくなる。
もうずっといらいらとしていて、英龍はひどい頭痛にさいなまれている。怒りとは、まるで自分自身に振るう刃のようだ。一人耐える英龍の怒りは、英龍だけを痛めつけていく。だが、いくら心を落ちつけようとしても無理なのだ。思考を別のことに転換することもできないし、気づけば反芻するかのように昨夜の快感と今朝の憤怒が脳内で再現されるのだ。
英龍は軽く頭を振った。
先が全く見えない。
一体いつまでこのような苦しみに責められなくてはならないのか……。
と、こわごわと、侍従が外から声を掛けてきた。
「……陛下」
「何だ! 余が呼ぶまでは声を掛けるなと言ったであろうが!」
「も、申し訳、ありません……! ですが緊急とのことで、女官長より文が届きましたのでっ!」
声の震えが侍従の怯えを如実にあらわしていて、それで英龍は少し気をそがれた。それにより少しの理性が戻り、すると英龍はその文の言いたいことを予想できた。すると英龍のやり場のない怒りの矛先は、残された一人の人間へと向かっていったのである。




