6.あんたは間違えた、だがやり直せる
苦しげに歪むイムルの顔は真実を語っており、それに桃林は強い衝撃を受けた。身なりのいいこの異国の青年、おそらく寝食に困ることは一切なく、それなりにいい身分なのだろう。市井の者にとっては妬ましいかぎりの、生まれながらに裕福な階層に所属する人物なのだろう……。
だが、感情というものは定量的に比較できるものではない。本人がすごく辛いと思えば、それはすごく辛いことなのだ。金や宝石を手にしていようが腹が満たされていようが、辛いときには辛い。苦しいときには苦しい。それは姉に先立たれた桃林にも分かる虚しい思いだった。
だから桃林はあらためて最愛の姉のことを思い出していった。
「……過去は変えられません。ですが人には二つの力があります。一つは忘れられること。もう一つは未来を変えられること。忘れたい過去があり忘れられるのであれば、それはもう忘れてしまったほうがいいのです。ですが、あなたが忘れたくない過去なのであれば、それを引き受けて生きていくしかありません。そのような自分でも幸せになれる未来をあなた自身で作るしかありません」
「だから俺はあの女が欲しいんだ! 自分の力で幸せになろうと決めて、だからあの女が欲しいんだよ!」
間髪入れない答えに、イムルの信じる道が確固たるものであることがうかがえる。
隼平は二人の会話を黙ってずっと聞いていた。桃林の説法に圧倒され、イムルとの間に割り入る雰囲気などなかったからだ。だが、痛みにこらえる空也と、彼の手を握る空斗を見ていたら我慢ができなくなった。
「……お前、馬鹿だよ」
そう言うや、きっとその顔をあげた。
「お前は馬鹿だよ! 幸せっていうのはな、自分一人で感じるもんじゃないんだよ! 大切な人と一緒に作って、お互いに満ち足りて、それを幸せっていうんだよ! 一方的に自分の考えを押し付けて相手の考えを聞こうともしないで、そんな関係には幸せなんてないんだよ! そういうのは迷惑っていうんだよ!」
さっとイムルの顔色が変わった。
「あいつは迷惑じゃないと言った……!」
「お前、本当に馬鹿だね。言葉でそう言ったからってそれが真実とは限らないじゃないか。珪己ちゃんはお前と一緒にいたいとそう言ったか? ああ?」
興奮が止まらず、隼平はすっくと立ちあがった。そしてイムルと正面から向かい合った。二人の顔が同じ高さになる。
「好きでもない奴にべたべた触られたら嫌だってことくらい、お前は知らないのか?」
「だが俺の国では……!」
「お前の国のことなんてどうでもいい! これは珪己ちゃんのことだよ。あの子はそういう子だよ。まだ恋も知らない女の子だったっていうのに、あんなひどいことしてさ。もうそれだけで珪己ちゃんに嫌われたってことくらい、お前には分からないのか!」
「……嫌われる? 俺が?」
茫然としつつあるイムルに、隼平は憤然とした面持ちでうなずいた。
「そうだよ、お前のことだよ。イムル王子。あんたは間違えた、それだけだ」
ぐらりとイムルの体が傾いだ。とっさに支えようとした従者を、イムルはその腕で振り払ってけん制した。だが頭を押さえ足元がふらつくそのさまは、普段の自信に満ち溢れたイムルの姿とはまったく異なっていた。
そんなイムルに桃林が再度口を開いた。
「……残念ながら過去は誰にも変えられません」
「そんなことは分かってるっ!」
血走った目を向けてきたイムルに、桃林は静かに言葉を継いだ。
「ですがあなたには未来を創ることはできます。今回の経験を生かしなさい。今度こそ本物の幸せを得るために、よくよくご自分を見直されることです。誰でも過ちはおかすものです。失敗をしない人などおりません。それでも恥を乗り越え学んだ先に、きっとあなたの幸せはあるでしょう」
「ふっ……」
ひどく荒い呼吸に、イムルはうまく言葉を発せなくなっていた。そんな自分に気づき、また自分の足りなさを突きつけられたようで――それは自尊心の強いイムルには耐えられないことだった。
「ふざけるなああっ!!」
自分には価値があると信じていた。
だからこそなんとしてでも生きてやると『決めた』のだ。
だからこそ、なんとしてでも幸福な人生を得ようと『決められた』のだ。
だが、もしも自分に価値がないのだとしたら――。
(俺には幸せを望む権利などないではないか……!)
それはイムルにとっては死を宣告されたのと同義であった。
確信した瞬間、イムルの全身がわなないた。武者震いのように、痙攣でもしたかのように大きくわなないた。寄り添う従者がそれに真正の驚きを示した。だが驚いたのは湖国の面々の方だ。特に空斗はイムルの変化に闘気の増幅を察知し、瞬時に立ち上がり剣を構えた。
だがただ一人、イムルの心の機微を正確に理解した者がいた。
桃林だ。
「そうやってすぐに白か黒かで物事を捉えるのはおよしなさい!」
この女僧の怒声も、またきつくひそめた表情も、隼平は見たことがなく虚をつかれた。この人と言えば、出会った当初からいつでも笑みを絶やしたことがなかったからだ。それはまるで彼女の愛する義姉のようで、隼平の想う呉坊のようで……。
だが今ここにいる桃林はひどく真剣な表情をしていた。
「良き者が生き、悪しき者が死ぬ。世界はそんな単純なものではないのです! 善悪はもとより、人の価値すら千差万別! いいですか、人は誰一人として同じではないのですよ。だからこそ生きるのです。生きて己が存在を世界に残すほかに、自分の意志を示す手段はないのです。自分の意志とは、つまり、あなたにとって何が大切なのか、何が尊いものなのかをこの世に知らしめるということ。神はきっとそれを天上から見ていてくださっています。それにより、ようやく、私たち人間が望むものでこの世は満ちていくのです」
この女僧の発した説法のごとき言葉、誰一人として真に理解できていない。だが多くの者は桃林の放つ言葉の力に圧倒された。イムルの従者ですら、闘うためにイムルに付き従う男ですら、湖国の言葉を理解できなくとも動けなくなっている。
桃林の信心が引き金になったかのように、イムルの脳内にはいくつもの言葉が再現されていった。湖国を訪れ、楊珪己という少女を見つけ、それからイムルはいくつもの経験をしてきた。その都度、誰もが何かをイムルに伝えようと試みてきた。
『珪己は俺の友達だ! 友を売ることなんか俺にはできないっ!』
『……お前ら、もしかして楊家に何かしたのか!』
――あれは、あいつらに護るべき者がいるということだ。
『人は……人は間違えることもあるんです』
『自分が存在することを否定しないでください』
――あれは、あいつらもまた迷いながら生きてきたということだ。
『過去も他人からの評価も、もういいじゃないですか』
『本当に幸せになりたかったら、今の自分を大切にしなくちゃだめなんじゃないですか……』
――自分を嫌いだと言ったあの女も、それでは幸せにはなれないと気づいたんだ。
『ねえ王子……私たち、自分の力で幸せになりましょう?』
『誰かがいなければ幸せになれないなんて、そんな不完全な存在じゃないのよ?!』
――自分の力で幸せになる……?
(自分だけの、力で……?)
(運命の半身など、いなくても……?)
「……うわああああ!」
突如、イムルが叫び声をあげた。短剣を落とし、その手で頭をかきむしり出す様は狂ったかのようだ。
「俺は、俺はどうしたらいいんだ! もしもこれまで間違ったことをしてきたのだとしたら、俺はもう……!」
膝をつき、頭を抱えうずくまるイムルは、誰が見ても深い悲嘆と混乱の中にいた。
我にかえった隼平はいまだ剣を構えている空斗に医官を呼んでくるよう指示した。空斗は今度こそ本当に剣を納めた。ちょうどそこに、いつの間にかこの場を離れていた桃林が戻ってきた。桃林は水を入れた桶と清潔な布を抱えていた。桃林と入れ違いに空斗は出ていき、それを止める者は誰もいなかった。
桃林が手慣れた様子で空也に応急処置を施す様を、隼平は初めて目の当りにし、あらためて桃林の呉坊への情の深さを感じた。
義姉である呉坊が強盗に襲われて亡くなったと知って以来、桃林は負傷した人の家を訪問することに力を注ぐようになっていた。桃林は隼平に一度言ったことがある。義姉に接するように治療を施すことで、義姉を救えなかった自分の心を癒したいと……。またその心が他者を救う力となっていることに感謝したいと……。
「ひとまず命に別状はなさそうですね」
「あ、ああうん」
桃林の手技に見惚れていた隼平は、突然声を掛けられてやや動揺してしまった。そんな隼平に、桃林がくすりと笑った。笑われて、隼平は顔が赤くなるのを感じた。桃林はいつでも人をからかう。こんな時でも、だ。それが悔しくて恥ずかしくて……なのにひどくほっとする。
桃林は空也のそばから立ち上がると、いまだうずくまり頭を抱えるイムルに目をやった。桃林はゆっくりとイムルに近づきその肩にそっと触れた。
イムルがゆっくりと顔を上げた。だが放心し、見開いた目はうつろだった。
「大丈夫ですよ、大丈夫ですから」
桃林は触れているイムルの隆起した肩を何度か撫で、それから指先に力を込めた。
「大丈夫、大丈夫……。人は必ずやり直せます。やり直したいと思うのであれば、やり直すべきことを知っていれば……」
「……ほ、本当か?」
「ええ、本当です」
安心させるように微笑んでみせた桃林に、イムルが強張った頬を緩めかけた――その時。
「医官を連れてきました!」
玄関の方から空斗の声がした。その瞬間、イムルはまた硬い表情に戻り、桃林の手を払いのけ立ち上がった。従者の方を見て何やら一言きつく発し、すると従者は途端に険しい表情――ここにやってきたときと同じ表情を取り戻した。
そして二人は飛ぶようにこの場から逃走した。玄関の方、二人にすれ違った空斗の驚く声が隼平たちにも聞こえたが、二人はそのまま寺から去り、そして姿を消したのであった。




