5.誰も俺を止めるな
その時、最後の一人が動いた。
空斗だ。
手には抜き身の長剣を持ち、弟に負けず劣らずの俊敏さで、血塗られた刃へとまっすぐに向かっていく。
キーン――!
細く高い音とともに、血を吸ったイムルの剣がはじかれ、上方、天井の隅へと飛んでいった。
イムルは首をそちらの方へとやり、それからゆっくりと新たなこの邪魔者のほうへと顔を向けた。
「……お前、やる気か?」
言葉は何も意味をなさない。イムルの声には殺人を宣告する悪鬼のごとき重みがあった。そしてその目は雄弁に意志を伝えてくるのだ。お前を殺すぞ、と。
「くっ……」
空斗は長剣を構え直した。
鍛練でしか抜くことのない長剣をこうして人に向けるのは初めてだ。それは警備団所属の若者であれば普通のことだった。
剣先は小刻みに震えている。動揺は意志一つでは抑えが効かず手を震わせてしまう。
対する青い瞳の男は巨山のごとく悠揚としている。それは心にもブレがないということだ。人を斬ることも血を見ることも、この男の動きを損なうことはない。
闘い慣れた敵に比べてどれだけ己が未熟かがよく分かる。心の制御の程を比べるだけでも歴然とした差が二人の間にはあった。だがあとには引けない。この場で自国の者を護ることができるのは自分しかいないのだ。その事実が空斗を叱咤する。
震えそうになる膝をこらえ、息を大きく吐くや空斗はイムルに向かいなおった。
後ろの方、倒れている弟分のことはずっと気になっている。親密な人が斬られるのも血を流すのを見るのも、もちろん初めてのことだ。心配にならない方がおかしい。だが今は心を乱すときではなかった。闘い慣れていない自分でもできること、それはできるだけ心を落ち着け、最善の状態で敵と向かい合うことだ。それは幾多の稽古の末に会得している真理だった。
緊張で吐き気すらする。
顔色は明らかに悪い。
イムルが頰をぴくりと動かした。
それだけで空斗の剣先が跳ねるように大きく震えた。
イムルが冷ややかな笑みを浮かべた。
その目が雄弁に語ってくる。
『お前は俺には勝てない』
視線一つで――相手の思考が直接頭に飛び込んでくるようだ。
『殺すぞ』
空斗の全身が恐怖に慄き、一瞬で硬直した。
その空斗がびくっと体を震わせた。
肩に手が置かれている。
――桃林の手だった。
「もうおやめなさい。それよりもこちらの方の手当てをしなくては」
その声があまりに穏やかで、母のようで、空斗は敵と向き合っているというのに気を緩めてしまった。が、イムルのほうはなぜかその隙に付け込んでくることはなかった。
イムルの不自然な様子に、呆然としていた隼平の目が覚めた。体を縛りつけていた見えない糸も断ち切られたかのようだ。急いで地に伏す空也のそばに寄ると、空也は貧血と痛みによって顔を白くさせているものの、小さいながらも呼吸できており、まだこの世に在ろうと懸命に努力していた。
「あ、兄貴……」
空也の口から苦しげに零れ落ちた一言に、兄はとうとう剣を置いて弟のそばに膝をついた。
完全に戦いを放棄してしまっている彼らに、イムルの従者が指示を仰ぐようにイムルの方を見た。だが、イムルの視線は彼らの向こう、桃林に釘付けになっていた。
(こいつ、あの男に似てやがる……)
あの男とは――李侑生のことだ。
昨晩、イムルは侑生の屋敷に押しかけ、二人きりで向かい合った。楊珪己を渡すよう要求した。が、にべもなく断られた。侑生はイムルに対して一歩も引くことなく、だからその目を一つつぶした。にも関わらず、泣くことも痛がることもなく、侑生は血を流しながら黙ってイムルの正面に座り続けた。
そして、残されたもう一つの瞳を、それすらも捨てる覚悟で、イムルに向かい合い続けたのだ。
思い出したことでざわざわっと鳥肌がたった。
そこにいる女僧もまた、同じような顔をしてイムルを見つめている。
二人とも何を語るわけでもない。ただ同じように、同じような目つきでイムルを眺めるのだ。
(……俺はこいつを殺すべきなんだ)
女僧から目を逸らさぬまま懐からもう一本の短剣を取り出す。手の内に握り、そこからいつものように力を得ようとする。闘うことで得られる活力は、イムルにとって欠かすことのできない栄養のようなものだ。
(殺さなくては……俺は俺でいられなくなる)
人を傷つけたいわけではない。
だが傷つけなくては生きてはいけない。
自分ではいられなくなるのだ。
(誰も俺を止めるな……!)
*
桃林が痛ましい者を見るようにその眉をひそめた。
「あなたは勘違いをされているようですね」
「……お前に俺の何が分かる」
「私にはあなたのすべては分かりません」
「ではとやかく言うな!」
だが桃林はこの猛々しい異国人の鋭い声にも気負されることはなかった。
「すべては分かりませんが、一つはっきりと分かることがあります」
その威風堂々たる宣言に、イムルも、そして倒れた空也を囲む青年二人も思わず飲まれてしまった。ふいに訪れた静寂の中、桃林が立ち上がった。
「あなたは生きることに固執しすぎています。いいですか、生きることと死ぬことは同じなのですよ」
「……はあ?」
イムルにとってこの世でもっとも大切なもの、それは己自身だ。すなわち、桃林の発言は己の命を否定されたことと同じことだった。気色ばんだイムルに、桃林は怯えるどころか満足げにほほ笑んだ。自分の言葉がイムルに伝わったことに、その言葉の根本にある義姉の存在を感じ取ったのである。それゆえ桃林はさらに言葉を継いでいった。
「あなたはひどく空虚ですね。いったい何のためにあなたは生きたいと願うのですか。なぜそこまで死を嫌うのですか」
「お前は馬鹿か。生きたいと願うのは人として当然だろうが!」
それに桃林は静かに首を振った。
「ただ生を長らえて、それで何を得るのですか。ただ生きて、それであなたはその長寿を終えるときに何を思うのですか。ああ長く生きられてよかった、そう思えるだけではないですか。あなたはただ長生きをしたくて生きているのですか?」
そんなわけないだろう。
そう言ってやろうとして、しかしイムルの口から言葉は出てこなかった。
胸がつまり……声が出ない。
それはこれまで考えたことのない題目だった。
(俺は何のために生きたいと願ってきたんだ?)
(何のために俺は運命の半身を得たいと、幸福を得たいと渇望してきたんだ?)
ぐるりと頭をめぐらしかけたところで、桃林の言葉がさらにイムルを追ってきた。
「あなたの考え方は逆なのですよ。生きるために何かを得るのではありません。何かを得ることで人はその一生を満ち足りたものだったと振り返るものなのです。当然、それだけの強い満足感を得るためには、あなたが得る何かというのは、あなたにとって大切なものでなくてはならないでしょう。さて、あなたは何を大切に思っていますか。何に価値を感じておられるのですか?」
すぐには答えることのできないイムルに、桃林は容赦なく追及を続けた。
「少女一人を得たところで今のあなたでは幸せにはなれませんよ。なぜなら、あなたはご自分のことを理解されていないからです。自分をよく知ること、それからなのですよ。その先に少女への愛があるのだというのでしたら、私はあなたのことを心から応援できるでしょうし協力も惜しみません。ですが今はその時ではありません。……そうですよね?」
最後の方でようやく桃林がその目を柔らかく細めた。声音にも僧らしい慈愛の心が満ちていく。
「私は先ほど言いました。生きることと死ぬことは同じだ、と。生きることも死ぬことも、人の身に一度ずつ起こる平等な事象でしかないのですよ。ですが、その人生をどう彩るか、それはその人次第なのです。幸せになるも不幸になるもその人次第なのですよ」
「……だったら」
腹の底から発せられたイムルの声は、これ以上はないほど低く、まるで己の内にある奈落の底から語るかのようだった。
「……だったら俺はなぜ生まれながらにして不幸だったんだ」
遠く西欧から芯国に売られてきた母を持ち、王子の中で唯一青い瞳を有する自分。
疎まれるのが常で、その存在を無視されることも数えきれないほどにある。
心を開けるような人間は誰もいなかった。わずか七歳で母が狂い死に、一人残され、辛くて辛くて仕方がないとき――。イムルをすくい上げてくれたのはセツカの語る運命だけだったのだ。
こんな自分でも幸せになる方法がある。
こんな自分でも、自分次第で幸せになることができる。
絶対的な幸福はこの世にあって、それは青い目を有する自分でも得ることができる――。
セツカの語ったことだけが……それだけがイムルを死の淵から救い出し生きる力となったのだ。




