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4.同じじゃないよ

 ざっと眺め、瞬時に、三人の中に自分よりも格上の者は一人もいないとイムルは判断した。負けていることといえば年齢くらいか。二人、イムルよりも大人びている者がいて、実年齢もおそらくそうなのだろう。だが当然、自分よりも年上だという理由だけで見ず知らずの他人を尊べるような価値観をイムルは有していない。


 しかし、この場でもっとも年上らしき恰幅のある男が発した言葉はイムルの美意識に合った。


桃林とうりんさんっ……!」


 その一言に女僧を想う強さがよく伝わってくる。それでようやくイムルの怒りは頂点からやや下降した。とはいえ、まだ寝所で嗅いだ匂いを忘れたわけではない。


よう珪己けいきはどこだ?」

「その前にその人を放せ!!」


 このような状況でも強気に出られる態度もいい。鼻についていた不愉快な匂いも幾分か薄れるようだった。とはいえここで引くつもりは一切ない。


「お前、この女を殺されたくないんだろう?」


 分かりきった問いは隼平の思考を硬直させた。


「……当たり前だろうがっ!」

「じゃあ言えよ」


 我が意を得たとばかりにイムルが満足げに笑った。


「楊珪己の居場所を言え。それでこの女は助かるぞ」


 ぐっと喉を詰まらせた隼平に、イムルが不思議そうに首をかしげた。


「おや? 分からないか。もう一度言ってやろうか?」


 その青い瞳が隼平の知恵の足りなさを侮蔑するようににぶく輝いた。




 隼平は青く光る視線を身に受けながら、様々な感情が激しく暴れる己の内面に苦しんでいた。


 故郷で呉坊を失い、隼平は一つの大きな後悔を抱えてこれまで生きてきた。

 それは『大切な人を護りたかった』ということで――。


 何も知らないまま、気づけば呉坊はこの世から、隼平の住む世界から去ってしまった。だけど本当は護りたかったのだ。呉坊のそばでずっと生きていたかったのだ。たとえその場で呉坊もろとも死していたとしても、この手で呉坊を護りたかったのだ……。


 武に疎く体が大きいだけの自分には、強盗相手にどれだけのこともできなかったかもしれない。だけどあがくだけあがきたかったのだ。運命に逆らうように。天に背くように……。


 大切な人のために生きると幼少時に決めてしまっていたからこそ、呉坊を失ったことで隼平は心に深い痛手を負った。


 だからこそ、次こそは後悔しない道を選ぶと決めていた。

 もしも次の機会が訪れても、絶対に道を誤らない自信もあった。


 ――なのに。


(俺はどうしたらいいんだ)

(桃林さんを……呉坊さんの大切な桃林さんを助けたいのに)

(でも珪己ちゃんの居場所を知らないなんて言ったら、こいつはきっと桃林さんを……!)


 それは戦闘経験のない隼平にも容易に察せられる未来だった。知らないと答えて、はいそうですか、で寺から出ていってくれるような相手には思えない。「知らない」という隼平の答えを信じず、口を割らせようと人質を拷問しだすに決まっている。事実、てい古亥こがいという老人がその被害に遭っている。


(今はその時以上に緊迫した状況なんじゃないのか……?)


 目の前のイムルからは非常に追い詰められている様子を感じ取れる。

 だからこそ昨夜、侑生ゆうせいに刃のごとき一矢をくれたのだろう……。


 だが言うべきかどうかという選択それ以前に、隼平は珪己が今いる場所を把握していない。おそらくこの芯国人の襲来を察して仁威がこの寺から連れ出してくれたのだろう。そういえば玄関にも二人の沓はなかった。一体どこへ行き、いつここに戻ってくるのか。まったく分からない。彼ら二人、二度とここへは戻らない可能性も十分にある。


 ――護り方が分からない。




 どのくらいの時間が過ぎたのか。


 長いようで短い時間はあっという間に過ぎた。イムルの心理を読み解けば、きっとわずかな時間しかたっていないはずだ。


 とうとうイムルの我慢が限界を超えた。


「……俺にとってのあいつは命そのものなんだよ」


 一言一言、区切るように語られた言葉は大げさな表現ではない。湖国の言葉に不自由していて間違った文法を使ってしまったわけでもない。それは対する隼平にも理解できてしまった。


「俺からあいつを遠ざけようとするということは、俺の命を削ろうとすることと同じだ。それがどういう意味か……分かるよな?」


 緩慢な動作で懐に入れたイムルの手が取りだしたものは――細身の短剣だ。


 芯国人の男の多くがこの短剣を懐にしまっていることを、当然隼平は知らない。イムルは使い慣れたその短剣を無言で鞘から抜いた。しゅん、と、意外なほど軽やかな音をたてて抜き身の刃があらわれる。それを数本の指を使ってくるくると回転させ、最後にぎゅっと柄を握った。と思ったら、刃の先が光のごとき速さで桜林に向かった。


 気づいた瞬間、隼平は駆けだしていた。


 踏込み、次の足を出そうとして体が無様に傾いだ。俊敏に動くということは隼平の生活には無縁のことで、人一倍大きく重量のある体がついていかなかったのである。


「桃林さんっ……!」


 初期に発した同じ名前、同じ感情――。


 だが今のほうがよっぽど切実だ。


 刃の動きは疾風よりも速い。桃林はあと少しでその身に刃を受けようとしていて、隼平はそれを止められない自分を自覚してしまっている。


「やめろおお!!」


 だがイムルは聞いていない。すでに己の行動を正当化しており、それゆえこの行動を中断する理由がなかった。


(もうだめだ……!)


 これ以上はないというほどの絶望に落とされながら、それでも隼平は前に進むことをやめられなかった。分かりきった未来だとしても、最後まで進むことしかできない。


 すると隼平の後ろから一陣の風が起こった。

 

 空也くうやだ。


 この中でもっとも年若く、小柄で、俊敏に動ける空也が動いた。体の中に一本、しなやかなばねでもあるのだろうか。隼平が一歩進む間に二歩、三歩と近づいていく。跳ねるように、流れるように、一切の抵抗なく進んでいく。


 そして隼平は生まれて初めて人が人を斬りつける瞬間を目の当りにした。


 時がひどくゆっくりと流れていく。


 桃林をかばう空也の背だけが見える……。

 その背にイムルの短剣が斜めに走っていく……。


 光る刃が上から下へと筋を作る……。

 その筋が、空也の背の上で赤く浮かび上がる……。


 と、時がまた正常の速度で動き出した。


 ぱああっと血しぶきが舞う。

 顔をしかめた空也がうめく。

 銀色に輝く剣先が、まぶしいほどの紅で塗られる。


 それだけのことがほとんど一瞬で起こった。


 空也の腕の中、桃林が身じろぎをした。


「……あなたは?」

「お気づきですか。無事で……よかった」


 それだけ言うと、空也はその場に崩れ落ちた。空也が地に伏したことで、桃林の姿が隼平の前にあらわれた。首には絞められた痕がうっ血して残ってはいるものの、空也の身を挺した防御のおかげで他にはどこにも怪我はない。


 隼平は動くこともできなくなっている。声も出ない。


 空也も床の上、まったく動かなくなった。背の上、茶色の官服がじわじわと濃い色で染まっていくだけだ。出血がひどく、たとえ気絶しているだけだとしても、このままでは命を落とすことになるのは明白だった。


 隼平の脳内に過去の残像――故郷の荒れた寺の様子――が次々に思い出されていった。


 引きちぎられた掛け軸。

 切断された神々の姿。

 木端微塵に砕けた花瓶。

 家屋のいたるところに見られた深い傷。


 ところどころに、茶色く変色した血の跡――。

 墓石の前で揺れていた野菊――。

 呉坊の笑顔――。


 呉坊の教えてくれた大切なこと――。



『生きることと死ぬことは同じだよ』



 ぶわっと、隼平の目から涙が溢れた。


(同じじゃないよ、呉坊さん。同じじゃないよ!)


 生きている人、そして動かない人。

 何もかもが違う。何もかもが違っている。


 刃を振るった張本人は、邪魔をした若者に対して何の感慨も湧かなかったようだ。


 イムルが再度腕を振り上げた。手には赤と銀で輝く短剣があり、刃はまたも桃林へと向かっていく。


 それでも隼平は腕を伸ばすので精いっぱいだった。


 このような時だというのに、いや、だからこそ体が言うことをきかない。


 身を持って知った。


 いざというときに心を叱咤し体を動しきることの、なんと難しいことか――。


 それができる武官という存在、武芸者の本当の強さの意味を、このような時だというのに隼平はひしひしと感じた。

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