3.他の男と
隼平の当然の質問に、青い目の闖入者――イムルは答えるつもりはないようであった。
楊珪己を求め、イムルは昨晩から一睡もしていないし休息もとっていない。闘いにおいて折られた足はずきずきと痛み、膨れ、熱を帯びている。だが今はそれどころではない。足の一本などどうでもいいのだ。今がこの身、この命においてもっとも重要な時であることを、イムルは本能で悟っていた。
昨夜、宮城において黒衣の皇族・趙龍崇の殺意を受け、イムルはいったん仮住まいである大使館に戻っている。だがそれは決して怯えによるものではない。武に通じていなそうな男一人、イムルは片手でも片付けることができる。相手が他国の皇族であろうとかまうことはない。イムルは己の欲することに正直に生きている自信がある。不愉快な存在に殺意を向けられれば、即その息の根を止めるだけのことだ。
ではなぜ、これまでイムルがその行いで咎められなかったかというと、それはひとえに王子たる身分を守るために言動を抑制してきたからであった。権力と金、この二つを利用できる王子という位は、たとえ最下位の王子として蔑まれようとも必要不可欠なものだった。矛盾しているようだが、イムルにとっての最優先事項とは己の運命の半身を探しあてることで、それは昔も今も変わらない。そして己が望むように行動しているという点においても何ら変わってはいないのだ。
そして昨夜、気が触れたかのような龍崇の突然の殺意に、イムルは二つのことを感じたのだった。一つは「この男は楊珪己を保有していない」ということ。もう一つは「こいつに関わるのは時間の無駄だ」ということ。イムルは今すぐにでも楊珪己が欲しい。一度手に入れたと確信したからこそ、この手から零れ落ちた運命の欠片を強く欲してしまう。早く手に入れたい。早く抱きたい。今度こそすべてを手に入れて絶対的な幸福を得たい――。だから時間を浪費したくはなかったのである。
イムルは一人室に戻り、冷静になってあらためて検証した。
あの紫袍の文官、李侑生は口を割らない。
あの黒衣の皇族、趙龍崇は役に立たない。
張温忠は行方不明で、おそらくどこかに潜んでしまっている。
残るはあの武官、自分を落とした男だけだが、今は正体を突き止めるその少しの時間すら惜しかった。
楊珪己の屋敷を監視しても、目的の少女がいつ戻ってくるかは定かではない。温忠がその身を隠したくらいなのだ、当の少女が堂々と屋敷の門をくぐるのはより一層先のことになるだろう。
何かないか。
何か、どこかに自分が見落としているものはないか。
そしてたどり着いた結論は二つだった。
一つ目は医官を探すこと。イムルが腕を折った老人、鄭古亥の治療をした医官がこの街のどこかにいるはずで、その医官の口を割らせて古亥の自宅を突き止めるという策だ。イムルは古亥を再度痛めつけて情報を得るつもりだった。だが、こちらに回した腹心の部下は老剣士の返り討ちにあって殺されてしまった。それが今日の昼過ぎのことだ。しかし自業自得だ。弱い者はこの世から淘汰されても文句を言えない。それは己の部下でも同じことだ。
そして二つ目は馬車を探すこと。昨日はまれにみる悪天候だった。そのような中、ほとんどの人間は屋外に出ることを嫌った。だから、昨日の夕方、客の要望で長時間利用された馬車があれば、それが大使館に押し入った面々を運んだ馬車である可能性は非常に高い。
イムルが今この寺にいるのは、二つ目の道をたどってやってきたからだ。思惑どおり、この道は最短でイムルを楊珪己の元へと導いた。御者は大金を渡すと簡単に口を割った。だが来てみたら寺にいたのは女僧ただ一人――。
それでも、イムルはこの小さい寺の中を嬉々として探索した。もうすぐで運命の半身を取り戻せる、そう思うだけで足取りも軽やかになった。足の痛みも感じなくなるほどだった。そういったことにも珪己が己の運命の半身なのだとあらためて確信できた。一つ一つ証拠を積み上げ、そのたびにイムルは満ち足りていった。
だが寺の中のどこにも珪己の姿は見当たらなかった。それどころか、一つの部屋――二つの寝台が置かれている客人のための部屋――で、イムルは確かに聞いた。己の頭の中でぷつんと何かが切れる音を。
その部屋の寝台の一つがあきらかに乱れていた。それにただ横になっただけではない激しく動いた形跡があった。そして、匂い。狭いだけあって、窓が閉めきられているせいで、部屋の中には幾多の匂いが充満していた。そのうちのもっとも新鮮な匂い二つをイムルは嗅ぎ当ててしまったのである。男の匂いと女の匂い。男の精の匂いと、忘れることの決してないあの少女の匂い――。
(……俺という男と出会っておきながら他の男とだと?!)
信じられなかった。
(ありえんだろう!!)
広間に戻ったイムルは怒髪天の勢いで、従者に見張りをさせていた女僧に近寄るとその胸倉をつかんだ。
「おい、楊珪己はどこにいる!」
加減のない力に女僧の顔が一気に赤くなっていった。力を入れ過ぎて女僧は言葉を発することもできなくなっている。だがそれにも気づかず、イムルは片手で女僧の首を掴むや、女性特有の細い首を加減知らずで絞めつけていった。
「早く言え! 早く言わないとお前を殺すぞっ……!」
そうは言いつつも、イムルはめきめきとその指に力を込めていった。そして女僧は一切の抵抗もできず、あっという間に意識を失ったのである。
だが、手ごたえのなさですらイムルに人としての心を取り戻す効果はなく、逆に情報を得られなかった不愉快さで胸がむかついただけだった。崩れ落ちた女僧を従者が縛り上げるのを、イムルは血が昇りくらくらとした頭を押さえつつ黙って見ていた。一向に怒りは収まりそうになかった。
そこにあの隼平の帰宅を告げる声が聞こえたのである。




