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1.兄弟の誓い

 隼平しゅんぺいが馬車に乗ると、それだけで車体が傾いた。ぎぎ、と軋む音が長々と鳴った。


枢密院事すうみついんじはもうちょっと痩せたほうがよくありません?」


 気安く声を掛けつつ続いて乗り込んできたのは若い武官だ。名をはん空也くうやという。今日初めて対面したばかりだというのに、まだ十代の空也は大らかな雰囲気のある隼平にすでに心をゆるしていた。空也だけではなく、老若男女、誰もが隼平に対しては同じように容易に警戒心を解いてしまう。それは隼平の持つ天賦の才の一つだった。


 空也は上背のある武官仲間の中ではやや小柄なほうだ。見た目も、武官というよりはその辺にいる健康的な少年といった具合でしかない。だが隼平はそれを利点と考えて空也を紫苑寺へと連れていくことに決めた。いかにもな男ばかりが寺に滞在すれば否応にも人目についてしまうからだ。一人くらいはこういう男がいたほうがいい。


「お前はもっと大きくなったほうがいいがな」


 最後に乗り込んできたもう一人の武官、はん空斗くうとが小馬鹿にするように笑った。空斗は二十代半ばで、仁威ほどではないが武官らしい鍛えられた体躯を有している。空斗のことは素直に「腕の立つ武官」という枠組みの中から選抜した結果だ。


「うっせえよ、兄貴」


 空也が顔を真っ赤にしたのは、怒り半分、恥ずかしさ半分だろう。普段から同じことでからかわれているようだ。


 三人が乗ると馬が小さくいなないた。そして御者の指示の元、轍は回転し始め、やがてぽくぽくと軽快な蹄の音が響き始めた。地面が固く踏みしめられているのは、開陽の街がそれだけ多くの人を通行させているからだ。今もしとしとと雨は降っているが、この程度の雨量では通る道が柔らかくなることはない。


 隼平はいつまでもいがみ合う二人の武官の顔を見比べて、ふふっと笑った。


「二人とも本当の兄弟のようだね」


 それに二人が怪訝な顔をした。


「俺たち、呉枢密院事に話しましたっけ?」

「君たちが義兄弟だってこと?」


 やや警戒しながらうなずく二人に、隼平が種明かしをした。


「俺さ、武官の人事を担当しているんだ。その中でも特に禁軍、警備団の人事を見てて。君たちを同じに組み込んだのは俺なんだよ」


 ここで説明すると、彼らは由緒正しき武挙に合格した武官であり、その中でも特に選ばれた精鋭、禁兵の一員である。禁兵は宮城や首都に駐屯する。たとえばえん仁威じんいしゅう定莉ていりも禁兵である。なお、禁兵が所属する軍をひとまとめに禁軍という。


 その他に、州の元で、つまり地方で働く廂兵しょうへいという存在もいる。禁軍で勤めるほどの素質のない者や、禁兵ではあったものの怪我や高齢を理由に落廂らくしょうしたものが集められた軍は廂軍しょうぐんと呼ばれている。


 なお、禁兵の中でも最上級の武官は宮城にて三軍――近衛軍、騎馬軍、歩兵軍――のいずれかに配属され、三軍に所属するに足る能力がない者は警備団配属となる。そして警備団に配属された者はこの二人の青年のように首都・開陽の守護にあたることとなる。


 話を氾という名のこの二人の武官に戻すと、彼らは禁兵であり警備団所属の武官である。警備団はさらにという百人単位の集団に区分けされ、都毎に与えられた区画を巡回、監視するのが定常任務となっている。


 そしてこの都の一つに二人の氾青年を所属させたのは隼平だと言う。


「俺さ、名前が似ている人を見かけるとくっつけたくなっちゃうんだよね」

「なんなんですか、それ」


 空也があきれた顔をした。


「もっと大事なことで決めたほうがいいんじゃないですか」


 まだ若いだけあって、隼平の人の好さにすっかり自分の立場を忘れている。今日、隼平は李家の二階で散々泣いて取り乱したが、この二人の武官は正気を取り戻した後の枢密院事としてふるまう隼平の姿しか見ていないのだ。


 昨日、楊家隣の道場が芯国人に襲撃され、道場主のてい古亥こがいが重傷を負った。そして先ほど、その人物は芯国人を殺害した咎で逮捕された。その知らせを受けるや、玄徳は自らすすんで場を取り仕切り行動を起こしていった。普段は配下に可能な限りの裁量を持たせる玄徳にしては珍しい強引さのある指揮ぶりだった。それゆえ隼平は良季りょうきと二人、黙って従うことを選んだのだった。


 そして今はこうして、隼平は年下の武官二人と馬車に揺られている。


 だが実は、隼平はこの一連の事件にも混乱させられていた。


(元近衛軍の将軍が、あの楊武襲撃事変の立役者たる男が、芯国人に滅多打ちにされ、しかも今日になって相手を殺しただと……?)


 もうなにがなんだか分からない。


(この開陽の街は安全じゃなかったのか……?)

(俺たち枢密院の仕事はそんなに恐ろしいものだったのか……?)


 だがそのようなことをこの二人に話しても仕方がない。


 隼平は自分の戸惑いには蓋をして、二人にからかうような笑みを向けた。


「でも君たち、俺のおかげで兄弟になれたんだろう? ならいいじゃないか」

「……それはまあそうですけど」


 まだ納得していない二人の兄弟に、隼平はからからと笑ってみせた。


「義兄弟になるくらいだから二人は仲がいいんでしょ?」


 湖国では随分前から義理の契りを結ぶことが流行っている。それはこの地に住む民族特有の思考なのかもしれない。一度契りをかわした者同士は、実の兄弟姉妹と同等の関係であると誰からも認知される。ある意味、男女の婚姻よりも純粋な損得のない人間関係であり、だからこそ尊ばれるのだ。


 隼平の問いに、二人はそこだけは素直にうなずいた。


「ええ、それはそのとおりです」

「いいなあ。俺もそういう人が欲しいなあ。頼れるかっこいいお兄さん、それにかわいくて護りたくなっちゃうような弟がさあ」


 まだ侑生に対する悲しみと自戒の念に心を疲弊させつつも、本心から隼平はその目を細めた。呉坊を亡くし、寺の子供たちを失い、隼平はそれからずっと一人で生きてきた。あの寺で過ごした騒がしくも愛に満ち溢れた日々がなつかしい。なつかしくてたまらなくなり、時折胸がぐっと詰まる。一人で過ごす家は静かすぎる。一人で摂る食事は味がしない。一人とは……。さみしさが辛いことと知ってしまった隼平にとって、一人とはなんとも苦しい生き方だった。


 すると空也が「えー!」と非難するような甲高い声をあげた。


「呉枢密院事にはもうそういう人がいるじゃないですか」

「……え?」


 何のことか分からずぽかんとした隼平に、ちっちっと、空也が人差し指を立てて振ってみせた。


こう枢密院事がお兄さん、枢密副使が弟さんじゃないですか」

「え? でも俺たちそういう関係じゃないよ。高枢密院事は友達で同僚、李副使にいたっては上司ってだけだもん」

「もしかして……呉枢密院事って相当ににぶいんですか?」


 呆れた顔で空也が言った。


「お三人って誰がどう見ても兄弟にしか見えませんけど。三国志の三兄弟のようですよ」

「でも俺たち、桃園の誓いなんてしてないし」


 おどけた調子で答えると、これまで黙って二人の話を聞いていた空斗がぼそりと言った。


「……誓いなんて本質的には無意味です。お互いが兄弟だと感じたらそのときから兄弟なんですから」


 これには隼平もちょっと驚いた。なぜなら隼平は、文官の自分と武官の彼らには一つの見えない壁があると思っていたからだ。それは智恵があるかないか、つまり世の理を熟知しているかどうか、ということだ。


 なお、隼平は自分のことを賢人だなどとは思っていない。宮城に勤めていれば自分よりも出来のいい人間にはいくらでも出くわすし、過去の思い出一つとっても、今日の出来事からしても、やはり自分には天賦の才などないと思う。


 だが隼平は、自分はそれなりに賢い人間だと自負していた。だからこそ科挙に合格したのだし、この若さで緋袍の官吏の最高峰である枢密院事を任じられているのだから。


 そして武官といえば、何かあれば武力に頼る人種、つまり何かあっても頭で解決しようとしない、できない人種だと捉えていた。馬鹿にしているわけではなく、それは哲学の違いのようなものだと思っている。常日頃武力に頼る人間はどうしても頭を使いきれない。そこが自分たち文官と彼ら武官との違いだと思っていた。逆に自分は体を使う方には自信がないし、そうやって不足する者同士が己で出来ることをし補いあうのがこの世の仕組みだとも思っている。


 だが隼平はそういった自分の考えの一部には間違いがあると気づいた。なぜなら、この年若い二人の武官は隼平の思いもよらぬ正しい解釈を提示してきたからである。


 ――こういうとき。


 呉坊であれば、まずは感謝の言葉を述べるだろう。


 それは隼平の気持ちとも一致していて、だからそのとおりに行動した。


「氾兄弟、ありがとう。そうだね、そのとおりだ。誓いなんて本当は不要なんだろうね。言葉に出さなくても、契約なんかなくても、大切だと想い合えたらそれだけでいいんだろうね……」


 こうして新しい見解を得ることができたのもこの二人の名前が似通っているからで、そんな二人と出会えたのは呉坊が名の似通った女僧と姉妹の契りを交わしたからだ。


(ああ……。呉坊さん、あなたはやはりまだここにいるんですね……)


 そう思うだけで隼平の胸はぽっと温かくなる。


 この世も自分もまだ捨てたものではないと思える。


 それは侑生が負傷して以来の、心地よくも涙の溢れでそうな温もりだった。その感覚によって隼平は息を吹き返した。そう、今の自分は枢密院の官吏なのだ。呉坊は自分の生きる道を定めて常に迷うことなく行動していた。であれば自分もそういう人間になりたい――。

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