4.幸福な人生
暗く湿った牢獄の中に、鋭く高い沓の音が響く。コツコツコツ……。近づいてくる音に、それまで冷たい石床の上に寝ていた古亥はゆっくりと重い体を起こした。ちょうど背を伸ばしたところで、檻の向こうに古亥がよく知る男があらわれた。
「おお、楊枢密使か。こんなところに来ていただいて申し訳ないことですな」
茶化すような口調に、薄暗い向こうに見える玄徳の顔が歪んだ。泣きそうになるのをぐっとこらえている。そのような表情をする玄徳を、古亥は今まで一度も見たことがなかった。八年前に妻を無法者に殺害されたときですら、玄徳は気丈に振る舞い続けた。その顔から笑みを絶やすことはなかった。なのに今、玄徳は、古亥の陥った状況に心を痛め苦しんでいる。
「儂が好きでやったことですから、あなたが気にすることではない」
「……すみません。あなたにこのようなご迷惑をかけてしまって……」
「迷惑なことなどないわい。どうせもうすぐ死に絶えるこの老体、役に立ってよかったってもんよ」
だが玄徳は古亥の言葉を聞いていないかのようだった。
「こんなことならあなたを開陽に戻さなければよかった……」
「何を言う。楊枢密使のおかげで儂は救われてこれまで生きてこれたんだ。あのまま田舎町でくすぶっておったら、暇過ぎてとっくの昔に死んでおったわ。だが開陽に戻り、珪己嬢とすごし、儂は最後まで武芸者として生きることができた。幸せな人生だったよ。……なあ、儂が本心からそう思っているということ、お主なら分かるであろう?」
玄徳がその目を伏せ、きつく唇を噛み締めた。
「だから……だから辛いのです」
「幸せの種類は千差万別。だがなあ、楊枢密使よ。武芸者は武芸者として生きることこそが幸せなんだよ。たとえ他人やお主にそう見えなくても、儂は幸せもんだよ」
「……はい」
たとえ玄徳が理解できなくても、いや理解したくないとあがいても、古亥はその信念を変えるつもりはなかった。自分が信じる道、幸福を貫くこと、それこそがもっとも重要なのだ。
「念のため周囲の警備を増やしておきました」
「おお」
「……毎日あなたの好物を差し入れさせます」
「そりゃあありがたい。酒が飲めなくなるのだけは残念だが、まあそれくらいは我慢しないとな」
元の軽妙な調子に戻った古亥に、玄徳は深々と頭を下げた。
「おいこら。枢密使ともあろうものが罪人に頭など下げるな」
だが玄徳は頭を上げることはなかった。
「私はあなたのことを決して忘れません。決して……忘れません……」
「儂もお主と珪己嬢のことは忘れないよ。二人とも体に気をつけるこった。二人が元気でやってくれればそれでいい」
「本当に……本当にありがとうございました」
「ああもういいから。これ以上儂なんかに頭を下げるな。最後くらいちゃんと顔を見せてくれや」
ゆるゆると顔を上げた玄徳に、古亥は心からの笑みを向けた。
「それでな、楊枢密使。珪己嬢のことなんだが」
「珪己がどうかしましたか?」
古亥は周囲を見渡した。それに気づいた玄徳が「人払いしてあります」と言う。古亥は檻の方に顔を近づけるや玄徳に耳打ちをした。
「……実はな。今日、珪己嬢が儂の見舞いにやって来たんだ」
「珪己が?」
昨日から何一つ行動を把握できていなかった娘が、なぜ古亥の家に――。
そこで玄徳は古亥の右腕の状態に今頃になって気づいた。
気づいた刹那、昨夜帰宅した際に家人らがまくしたてていた話の一つがこの場へと繋がった。楊家と、そして隣にある道場に強盗が侵入し、道場のほうは一人負傷した者がいると聞いていた。だが、まさかこの元近衛軍将軍である老人が犠牲者であるとは想像しておらず、可哀想などこかの少年のことだと思っていた。もちろんその少年にとっては一大事だが、玄徳は昨日と今日とで心身ともに多忙を極めていたため、詳細を知ることは後手でいいと考えていたのだ。
みるみるうちに玄徳の眉が下がっていく。
「ああ……。私は昨日のことについてもあなたに謝らなくてはなりません。昨日我が家と道場を襲ったのは『彼ら』なのですね」
「もう謝るでない。これ以上はこそばゆくてたまらんわ」
そう言われ、玄徳は少しの間の後、黙って小さく頭を下げた。
「それで今日のことなんだが」
話を早急に進めようとするのは、実際に古亥には残された時間が少ないからだ。こうして二人きりで話しているが、いつ何時誰がここにやって来るかは分からない。誰かが来ればそこで会話は終了だ。そして二度と二人きりでは言葉を交わせなくなる。明日、審議の場が設けられ、そこで古亥の罪状は決まる。そうなれば即刻、罪を償うための場所へと護送される。
玄徳は苦しい胸をこらえて、よく話を聞くために古亥の目を見つめた。古亥はそれに満足したように目を細めてみせた。
「珪己嬢が我が家に来てすぐ、奴がやって来たんだ」
「あの芯国人ですね」
「そうだ。奴は仲間を呼ぶための笛を吹いた。それに呼応する笛の音も確かに聴いた。緊急事態だったんだ。他に手段がなく、それであのような結果になった」
だが古亥は、その男にとどめを刺したのが珪己であることまでは暴露しなかった。この古亥の告白だけで、玄徳は苦しみに耐えて唇をかみしめていたから。
親というもののありがたさと愛おしさを、古亥は玄徳を通して知った。今もこうして娘のために罪を感じて苦しむ玄徳……。申し訳ないと思いつつも、そのような表情を見せる玄徳に、古亥は胸が熱くなるのを押さえられなかった。
古亥は玄徳と珪己に対して、今の玄徳と同じような感情を抱いている。
玄徳が娘を想う気持ちに比べれば、己の感情は弱く無価値であることはよく承知している。だが、たとえ疑似であったとしても、その感情の端のほうだけでも味わわせくれた楊家の二人を、古亥はやはり大切に思うのだ。
自分以外の人間を想い、喜び、心を痛める。
自分以外の人間のために生きる。
そこに武芸者としての道もあるのだとしたら、やはり自分の選んだ人生は幸福としか言いようがないのだ。
古亥は八年前の事変を経て、近衛軍将軍の職を捨てることでようやくこの域に到達できた。それまでの古亥は、目の前の任をこなすだけの、武芸を追及し強くなることだけを考える単純な男の一人だった。今思えばそれはなんともつまらない生き方だった。どれだけの任を完遂し、どれだけ強くなったとして、残るのは達成感――つまり、自己満足だけだ。
自分がやらねば誰にも達成できない任などそうそうない。それは言い換えれば、自分なしでもこの国、この世界は動くということだ。実際、武官とは数を頼みに行動させられることが多い。鄭古亥その人でなくては、と指名されることは確かにあったが、それらも自分がいなければ次点にいる他者が勤めるだけ。事変の後もそうだ。古亥が近衛軍将軍を辞しても誰も何も困らなかったではないか。
(……どれだけ強くなろうとも、人は人を求めてしまうものなのだよなあ)
腕を折られ殺人の罪を背負い、牢に入れられた自分。なのに、このような時だというのに、古亥は達観した心持ちになっていた。
(求めることを許されるだけで儂は本当に救われた……幸せだった)
だから、玄徳が古亥の告白にどれだけ胸を痛めようとも、やはり古亥は笑ってみせることができるのだった。




