3.答えは一つだ
うつろな表情のまま、連れられるままに珪己は走っている。珪己の腕を掴み、引っ張りながら先導して駆ける仁威の背中は、いつにもまして緊張感を孕んでいる。
珪己は初めて人を殺めた事実に混乱しながらも、ただただ走り続けていた。何も考えず、走ることしかできずにいる。片手に琵琶を持ち、もう一方の手は腕が抜けるくらいに強く引っ張られている。この体勢は非常に走りにくい。量は少ないとはいえ今日も雨は降っているし、地面はぬかるんで水たまりも多い。
それでも二人は人込みの中を全速力で駆けている。
走りながら、仁威だけはこれからどこに向かうべきか思案していた。
初めは寺に戻ろうと思っていた。
(……だがそれはまずいのではないか?)
ふとそう気づけば、そればかりが頭の中で検証されていく。
珪己は気づいていないようであったが、仁威は長屋を飛び出してからしばらくして、古亥の発した声を確かに耳にした。あの老体が禁兵を呼ぶ声を確かに聞いたのだ。その後、自分達が走る方向とは真逆の方へと行く、好奇心にかられた顔をした人々と幾度もすれ違った。警備団の象徴である黒い鉢巻きをした武官が同じ方向へと駆けていくのも横目で確認している。
(あの人が大げさに自首をしたのは芯国人に自分の身を利用されないためだ)
注目を浴び、多数の人々に取り囲まれることで、芯国人に拉致されることを防ぐためだ。仲間を殺されたのだから、あの芯国の王子はきっと古亥に復讐をしようとするから。そして古亥の命を利用して、珪己を己に引き渡すよう要求してくるに決まっているから……。
それを阻止するために――古亥は自ら捕まった。
だがたとえ芯国側にその身を囚われることがなくとも、古亥は一殺人者として捕縛されてしまった。この国では殺人は罪が重い。攻撃手段を熟知した元武官、元近衛軍将軍であれば、なおさら立場は悪い。古亥のような年老いた身では残る一生を牢で過ごすはめになるだろう。
だが古亥はその道を選んだ。それはもちろん珪己を護るため、楊家を護るためだ。
(誰かを護るということには覚悟が必要なのだ――)
そのことに仁威は胸が苦しくてたまらなくなる。
分かっていたはずなのに辛くなる。
古亥に比べたら、己の覚悟とはなんと脆弱なものだろう。
護るべき相手に一喜一憂して、護ることを最優先にできなくなっていた。
だが古亥は護ると決めた相手のため、その生涯の最後を潔く捨てた。
(だったら今の俺にできることは……!)
古亥のように楊珪己を護りたい、そう強く思う自分に気づいた。
感傷的になりがちな気持ちは振り切る。昨夜からずっと自分の心に惑わされていた。だが警護する側においてそういったことは邪魔にしかならない。それは何度も実感している。
今どうすべきか。
それだけを考えることに集中する。
また先ほどの疑問に戻る。
(……寺へ連れて帰って本当によいものか?)
寺に入る利点は数多い。
そこに仁威や珪己がいることは枢密院の官吏が把握しているから彼らと連絡をとりやすいし、おそらくすぐに自分以外にも珪己を守護するための武官が増やされることだろう。そうなれば仁威は安心して開陽を去ることができる。
だが、珪己を護るという一点において、あの寺が適しているかというと自信がない。
――いや、適していない。
(少し動きを探れば、あの寺にいつになく人が集まっていることも、体格のいい男や枢密院の官吏が足しげく通うこともばれるに決まっている)
(そうなったらまた振り出しだ。芯国の王子がいずれ楊珪己を攫いにやって来る)
(だがそれに備えて武官を多く増やしても結局は同じだ。争いは避けられない。王子のほうがあきらめない限り、この闘いはいつまでも続くだけだ)
(だが別の場所に身を移しても、そこもいずれは見つかるだろう。ああいう執念深そうな男を相手に「大丈夫だろう」などと確固たる自信もなしに動いたらだめだ)
――となると、答えは一つしかない。
まだ芯国人らに動向を悟られていない今なら選択可能なことが一つだけある。
仁威はやがて大路を左に曲がった。曲がらず真っ直ぐに進めば、やがて街のはずれへと着き、その先には今朝までいた紫苑寺がある。なのに仁威は道をはずれた。
だが仁威には一切の迷いはない。
珪己は混乱の中におり、そんな仁威に抵抗一つすることなくついてきた。問われなかったことで、仁威もまた何も説明することなく怒涛の勢いで雨に濡れる道を進んでいく。
そして二人がとうとうたどり着いたのは、開陽の街の四方を囲う城壁の前だった。
この城壁は煉瓦を積み重ねて構築された、初代皇帝の遺作の一つである。人の背の八倍近い途方もない高さで開陽の街を外界から隔離している。それゆえ、城壁の内に住む民には外の世界はまるきり見えない。外からも然りで、壁の内の様子は、特別高い建物、たとえば宮城や二対の楼閣といったものしか見えない。遠くにそびえる高山に登り、それでようやく街の全貌がなんとなく把握できるといった程度だ。だが三代皇帝の御代となり、安全を売りにするようになった開陽の街では、この城壁は不要のものと認知されつつあった。
この城壁には、東西南北、通行のための城門が設けられている。城壁の半分ほどの高さ、つまり相当巨大なこの城門、非常時と夜間以外は常に解放されている。理由は当然、この近隣が平和であるが所以だ。今も遮るもののない城門の向こうの方に草木だけの粗野な光景が広がっているのが見える。城門の前には武官が四名ほどいた。が、彼らは申し訳程度の監視と検分をしているだけだ。今、開陽ではよほどの物騒な人相、おかしな荷物を抱えていないかぎり、咎められることなく、手形なしで城壁の外へと出ることができる。
仁威は珪己の二の腕をいまだ握っていたことに気づき、解放した。そしてあらためて珪己の手のひらに触れ、次にしっかりと握った。珪己の手の内は熱く、じっとりと濡れていた。それだけで仁威には珪己の心中が理解できた。
仁威は長い間武官として生きてきた。そしてこの部下が最近まで何に悩んでいたかも熟知している。先ほどの闘いの跡もこの目で見ている。だが今はそのことについて丁寧に語り合い心をほぐしてやる時間などなかった。
「……しばらくお前は開陽を離れた方がいい。外では俺のことは兄だと言え。いいな」
仁威の言葉に、珪己はただうなずいただけった。
珪己の頭の中では考えることはずっと中断されている。何も考えずにいる方が楽だし、思索することが禁じられているような、緊迫した空気をずっと感じている。それは二人して古亥の家を出てからずっとだ。
今も仁威からは例えようのない性質の気が放たれている。ただそれは、珪己以外は気づかないほどに密やかなものだった。二人繋がっている手を介して、珪己の中に微弱な量が流れ込んでくる。その気の流れが珪己を物言わぬ人形のように操っている。
二人は壁の外へと出る人々の列に並んだ。その間二人は何も語らず、ただその手だけを繋いでいた。
やがて城門を抜け、二人はそこらにいる多くの乗合馬車の一つに乗り込んだ。馬車は大衆用の大型のもので、車内は大勢の人で苦しいくらいに満ちていた。だが二人はそれにも何も言わず、隅のほうに身をひそめるように座った。
やがて馬車は動き出した。ぱかぱかと、のんきな音を響かせて街道を進んでいく。住み慣れた開陽を離れていく。
揺られながら、仁威は隣に黙って座る珪己の手を一度だけ強く握りしめた。
(侑生、古亥殿、玄徳様――)
(俺が必ず楊珪己を護ります。必ず、今度こそこの身に懸けて……!)




