2.知らせ
良季が侑生の部屋を出てすぐ隣の部屋に行くと、まだ隼平は目を真っ赤にして鼻をぐずぐずいわせていた。その隼平のそばには玄徳もいる。二人の座る机の上には手のつけられていない茶の椀が置かれていた。ぬるくなり香りも飛んでいそうな、見るからに淀んだ褐色の液体……。良季はそれから無理やり視線をはずし、玄徳に対して報告をした。
「先ほど侑生は眠りました。容態のほうも落ち着いてきましたのでご安心ください」
「そう、よかった」
玄徳がほっとした顔になった。
上司である玄徳と、泣き止むことができなかった隼平、二人がいては心を安らげることができないだろうと、二人は先んじて侑生の部屋から出ていたのである。
今は涙も止まっているが、子供のように号泣した隼平の気持ちは良季にも痛いほど分かる。どれほど悔いても仕方のない現実に、人は悔やみ泣く以外にどうすることもできないのだ。
(……いや、違う)
「隼平」
良季が声を掛けると、隼平が充血した目で良季を見上げた。
「さあ、俺たちにはまだやれることもやるべきこともあるだろう」
良季に諭され、その言葉の意味がようやく隼平にも届いた。また嗚咽を始めながらも隼平がうなずくのを見てとり、良季は回り出した頭で考えつつあることを話していった。
「私が思うに、珪己殿の護衛は袁仁威一人に任せておいてはよくないと思う。一人ではどうしても警備に穴が生じてしまうからな」
「そ、そうだね。口が堅い武官を何人か見繕おうか」
同じく官吏としての自分を取り戻そうとする隼平の様子に、良季は安堵して続けた。
「緊急時であるし、ひとまず李家の護衛者の中から二人ほどを寺に連れていくのはどうだ」
「そ、それいいね。そうしよう」
「玄徳様、それでいいでしょうか」
「ああいいよ。指示書は明日にでも提出してくれればいい」
「では、選別した武官を連れて隼平は早急に寺へ戻ってくれ。私はこのまま李家にいて、いつでも宮城へと入れるように待機しておく。明日からの侑生と隼平の仕事はしばらくは私の方で代わりにやる。……玄徳様はこれからどうされますか?」
「私はこのまま宮城に戻るよ」
玄徳は今、官服である紫袍を身に着けている。今朝、龍崇に謁見するために入城しており、その足で李家へと来ていたからだ。
「侑生に起こった出来事は早めに黒太子にだけでも伝えておきたいし、今後に備えてあらゆる角度から今回のことを検証しておきたいからね。また何か新たな情報を得たら君たちにも伝えるよ」
「……黒太子や柳中書令には、侑生の意志は伝えるのですか?」
おずおずと問う良季は、先ほどまでてきぱきと采配をしていた男と同一人物とは思えない。その変化は良季が侑生を想う心のあらわれであり、玄徳はそれにわざとおおらかな所作で笑ってみせた。
「珪己と結婚したい、吏部侍郎にはならなくていい、というあれ?」
「……そう、あれです」
「それはまだ言わない。珪己の意志を聞いていないからね。今話すと、彼らは自分のやりたいように動き出してしまうから」
「……ああ、確かに」
皇族と中書令によるそのような言動が予想できて、良季は深く同意した。
「そうならないようにするためにも、私はしばらくはなるべく宮城にいるようにするよ。どうせ家に帰っても珪己はいないしねえ」
そう言った玄徳は、この時だけは寂しそうに笑った。
三人は侑生の部屋のある二階から降り、一階にある広間へとうつった。普段、この部屋は大勢の親戚や客人をもてなすために使われる。とはいえ、侑生も清照も友人関係は狭く、新年の宴の折にしか使われることはない。だが今はこうして枢密院の上級官吏が集うための臨時の場として用いられている。
通年で飾られているのだろう、新しい年を祝うのにふさわしい華美な装具が部屋のいたるところにみられた。大輪の牡丹に二羽の鳳凰が描かれた絵画、薄緑のすらりと細く薄い花瓶、著名な書家の手による掛け軸――。だがそのどれもが現状にはそぐわない物ばかりだった。
さて、ここに集う武官のうち誰を楊珪己の護衛者とするか。まずは李家に配置されている面々の名前をすべて書き出させようと、良季がこの一団の団長を呼び寄せて指示していると、そこに息せき切って一人の若い武官が飛び込んできた。
「た、大変ですっ!」
「どうした! 何事だ!」
団長を拝命する中年の域にある武官が騒がしい部下を鋭く叱咤した。黒い鉢巻の下、その目が部下を批難するように見据えている。
今、この室には枢密使と枢密院事がいるのだ。普段の彼らであれば直接言葉を交わすことなどできないほど高位にある三人がここに結集しているのだ。このような場で部下がしでかす不作法はすべて上司である己の大きな失態となる。だが、昨日からよくよくそう伝えておいたというのに、若く経験値の足りないこの部下はそれをすっかり忘れているかのようだった。
とはいえ一大事であるというのは本当のことのようで、普段であれば上司のその一睨みで動けなくなる年若い男は、息を整えるや興奮気味に語りだした。
「人が、人が殺されましたっ」
(こっちは枢密副使が芯国人に襲われたという非常事態なんだぞ。たかが街中の一般人の殺し一つで騒ぐんじゃない!)
そう思いつつ、口にすればこの人道的で有名な枢密使の機嫌を損ねるのは分かりきったことで、団長である武官は慎重に重々しさをもって尋ねてみせた。
「いつ、どこで。どのような事件なんだ」
「ついさっき、そこの長屋で」
そこまで聞けば、やはり大した事件ではないように思える。だが「被害者は芯国人なのです! 加害者は鄭古亥という名の老人だそうです」と、部下が続けて明らかにした事実に、その場にいた文官の三名が大きく動揺した。
「芯国人、それに鄭古亥……?」
良季のつぶやきは、玄徳の常ならぬ大声でかき消された。
「鄭古亥の身は今どこにあるっ?!」
このような大きな声を出す玄徳は、先ほど侑生を叱咤したとき以来だ。それ以外では優しくまろやかな声音で語る姿しか二人の枢密院事は見たことがない。この長官は、どのようなときでも、怒りや焦りによって相手を追い込むようなことはしない。だが、今の玄徳は違った。
玄徳のような最上位の文官に鋭く追及され、若い武官は敏捷に床に膝をついて頭を下げ、ついで早口で語りだした。
「加害者はすでに牢に移送されました。明日の審議まではそのまま拘留されると思われます」
「ではこれからその牢の周囲を厳重に警護するんだ! 高良季、さっそくそのように手配してきなさい!」
「はい!」
「呉隼平、寺の警護をする武官の方は君一人で選別しなさい。いいね?」
玄徳は矢継ぎ早に命令を下していく。枢密使の指示であるから、そこに疑問を差し込む余地などない。
「は、はい。かしこまりました」
「で、その被害者だが、どのような年恰好だったか詳しく教えてくれないか。ああいや、その亡骸は今どこにある?」
高位者らしい命じ慣れた口調と険しい表情に、報告者である若い武官は、上げかけていた顔を伏せるや、とっさに再度平伏した。
「は、まだ時間はそうたっておらず、検証のため、しばらくはそのままの状態で現場に残されていると思われます」
「ではそこに私を連れていってくれ。自分の目で見て確かめたい」
枢密使という最上位の文官が、自ら殺害現場を検分したいという。若い武官はもう一度深く頭を下げ、迷うことなく先導するように歩き出した。その後ろを玄徳もまた迷いない足取りでついていく。残るすべてを良季と隼平に託して――。李家の家人も、その場にいた他の武官も、前を通り過ぎていく玄徳のただならぬ様子に、ただじっと息を殺して見送るしかなかった。
だが誰よりもこの予想外の展開に驚き緊張しているのは、他ならぬ先導者、この若い武官であった。
彼がこの事件が大事だと感じ取り急ぎ報告に訪れたのは、被害者が芯国人であるという一点に尽きる。昨夜、この家にやってきて若き枢密副史に怪我を負わせたのも芯国人だからだ。だが、粗暴な芯国人が殺されたのは自業自得な結果によるものなのだろうと、そう安易な想像をしていた。大方、昼間から酒を飲み、暴れて、喧嘩でもしたのだろう、そう思っていたのだ。加害者の方も貧乏長屋に住む老人で、「人を殺した」と、自分から騒いで禁兵を呼びつけたくらいに頭のおかしな奴だった。
だが三人の文官のただならぬ様子に、この若い武官も、彼と玄徳が出ていくのを見送るしかなかった彼の上司も、これはただの事件ではないとようやく確信したのであった。




