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3.運命との対面

 がらがらと扉が開かれる音がし、すぐに外の雨音が被さるようにその音を消した。激しい雨音とともに、やや冷えた空気がすうっと道場の中に流れ込んだ。


 空気の色が変わったことに一番に気がついたのは、いまだ古亥の腕をひねり続けている異国の青年だった。そちらの方に顔を動かし、すると途端にその顔に喜色が浮かんだ。


 浩托はそれに気づき、遅れて扉の方に視線を動かした。


 そこには予想した少女が立っていた。胸に酒瓶を抱き、髪からはぽたぽたと滴を落としている。雨に冷えたのだろう、唇も頬もやや青くなっている。


 その少女の瞳が素早く道場の中を動いた。

 気絶した少年たちを、浩托を、古亥を、そして異国人たちを――。


 その細身の青年を認めた瞬間、珪己の口が小さく開かれ、そしてその目が大きく見開かれた。


 その瞳は雄弁に語っていた。

 この男のことを知っている、と。

 なぜこの男がここに来たのかを知っている、と。


 青年は両手の力を緩めることなく、場違いなほど朗らかな表情で珪己に語りかけた。


「お前は俺のことを知っているようだな」

「……ええ」


 視線を逸らさないまま、珪己は腰だけを下ろし、その手に持つ酒瓶をそっと下に置いた。そして再度立ち上がったが、その重心は先ほどよりも低くなっている。それはつまり、戦うことを念頭においたものだ。それを認めて青年の喜びの色が増した。


「ああ、やはりお前は俺の半身だったか」

「半身……?」


 眉をひそめた珪己にかまわず、青年はその胸の内の喜びを解放していった。


「そうだ。俺はお前をずっと探していたんだ」

「……なんのことを言っているのか分からない」


 言葉が流暢であっても、二人の会話は成り立っていなかった。


「分からないことなどあるか。お前は俺なのだから分かるはずだ。半身とはそういうものだろう」


 珪己の表情が険しくなった。


「私はあなたじゃない。あなたのことを知っているとさっきは言ったけど、あなたのことはほとんど知らない。名前も……知らない」


 睨む少女の視線すら青年は心地よく感じはじめていた。今自分を見つめるこの瞳こそが、長い間探しつづけていたものだからだ。


「ああ……俺の名はイムルだ」


 名乗る声には自然と甘い吐息が混じった。


(イムル……? そういえば船の上で聞いた覚えがあるような)


 頭をめぐらし合点がいった少女の様子に、その青年――イムルが嬉しそうなそぶりを見せた。


「ほら、お前は俺の名に覚えがある。それこそがお前が俺の半身である証だ」


(……はあ?)


 とっさに否定しようと口を開きかけた珪己を、イムルは首を振って黙らせた。


「俺たちに言葉は不要だ。なぜなら俺たちは元は一つの存在だったのだから。もう過去などどうでもいい。俺たちが何をしてこようが、そんなこともうどうでもいいんだ。大切なのは今、そしてこれからだ」


 そう言うや、古亥の肘から手を離し、その手を珪己に向かって差し出した。


「さあ、俺のもとへ来い。そして二人で共に生きていこう。今後俺たちが離れることは決してない。二人は永遠に一つでいられるんだ……!」


 青く澄んだ瞳がきらきらと輝いた。


 その瞳の透明さに珪己は毒気を抜かれ、束の間心を奪われてしまった。


 この青年、今も一方の手では古亥の手首を掴んでいるし、体重を思いきりのせた踵は古亥の背を踏みつけている。古亥は苦しげに体をこわばらせている。折られた腕は直視に耐えないほど痛々しいし、実際、古亥は脂汗を浮かべ必死で激痛に耐えている有様だ。


 古亥がこの場にいなければ、イムルの姿は麗しい王子そのもの、物語に登場する情熱的な求愛者のようだ。その容姿も爽やかな笑顔も、自分を強く求める言葉も心も、何をとっても非の打ちどころはない。


 だが、彼の足元には珪己の師匠がいて、彼による所業によってその身を痛みに震わせているのだ。


「あなたなんかと一緒に行くわけがないっ……!」


 珪己の体が怒りで一度大きく震えた。それをイムルが心外そうに見やった。


「何を怒っている。お前も俺なのだから分かるだろう。この老いぼれは戦って死にたいと望んでいるではないか」

「は……?」

「ああそうか。まだ息の根をとめていないから怒っているのか。よし分かった」


 何をどうしてそう合点したのか。言うや、イムルは掴んでいた古亥の手首を離すと、拳に変化させたそれで老体のこめかみを一気に殴りつけた。頭蓋骨にひびが入る寸前にわざと調整されたその打撃は、脳しんとうを起こすには十分で、古亥は白目をむくと、その体からふうっと力を抜いた。気絶したのだ。


 だらしなく開かれた古亥の口元、見える歯が血で赤く染まっている。それを見た刹那、珪己の怒りはとうとう極限を超えた。血がのぼりくらくらとする頭で、珪己は立っているのもやっとという有様になっている。何を言えばいいのか、何をすればいいのかがとっさには分からないほど、珪己の憤怒はすさまじかった。


 そうとも知らず、イムルは悠然と立ち上がるや、先ほど古亥を殴りつけた拳を開き軽くふるってみせた。


「さあ、これでゆっくりと嬲り殺せるぞ。それとも剣ですぱっと斬ってやるほうがこいつの趣向に合うか」


 珪己に振り向いたイムルは、母親に褒められるのを待つ幼児のようであった。無邪気で素直で、正しいことを成し遂げたと言わんばかりの得意げな表情だった。


 たちまちのうちに、これほどまでに高まった珪己の怒りはまったく異なる感情に転じた。


「あ、あなた……」

「なんだ?」


 にこりと笑ったイムルは、異国人だからというわけではなく異質な存在にしか思えない。そう、同じ血のかよった人間ではないようだ。


 そして今もこの青年の青い瞳がうるさいくらいに珪己に語りかけていた。


(俺の半身)

(お前は俺だ)

(俺たちは一つの存在だ)


 ぞぞっと、珪己の全身に鳥肌がたった。


(この人、言葉は通じるけど、本当の意味で言葉が通じないんだ――)


 同じ人間なのだから、いくつかの相違はあるとしても最低限の理は通じるはず、そう思っていた。正直、西宮で黒太子・ちょう龍崇りゅうすうに忠告されたときも、珪己は最後まで小さく反発していた。


 だが、本当だったのだ。


 あの皇族の青年が言っていたことは本当だったのだ。


『そういう男に出くわしたら逃げるしかない。君にできることはそれだけだ――』


(けど、こういうときはどうしたらいいの……?)


 目前には大けがを負い気を失っている師匠がいて。

 隣には明らかに強者であろう異国の武芸者に捕えられている幼馴染がいて。

 奥には気を失いまとめて転がされている三人の少年もいて――。


 今自分が逃げたら彼らがどうなるか分からない。


 しかしこの狂った異国人に勝つ見込みもまったくない。


 かといっておとなしく従い拉致されるようなことがあれば、それもまた国と国との大問題になる。先日、龍崇本人がくどく言っていたことだ。


 今が戦うべきなのかどうかすら……分からない。


(私はどうしたらいいの――?)

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