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1.愛はここにある

 顔面に負った裂傷が原因なのだろう。あれから眠りについた李侑生の症状が一刻も立たずに急激に悪化した。高熱に頬をほてらせ、体中から汗をふきだし、はあはあと息を継ぐ様子はひどく苦しげだ。


 昨夜からつきっきりで侑生の処置を担当していた老医官は、呼吸することすら難しくなってきた患者の様子に、よりきつい鎮痛薬と睡眠薬を調合した。意識もおぼろな侑生を起こし、白湯で流すように薬を飲ませると、しばらくして見るからに容態は安定していった。




 今、医官は席を離れ、侑生は静かに寝入っている。夢の中は平穏なようで、何の苦しみもないように心地よさげに目を閉じている。ようやく落ち着いた世界へ旅立てた上司に、一人付き添っていた高良季はほっと息をついた。


 息をつくと同時に人の気配を感じた。


 戸の方に顔を向けると、侑生の姉、清照がそこにいた。いつからいたのか、良季はまったく気づいていなかった。戸が開いて元のように閉められる、その一連の気配にすら気づいていなかった。


「……侑生の様子はどう?」


 昨日とはうって変わって清照の声は細く、聞き取りにくいほどに小さかった。


「もう大丈夫です。薬は良く効いていますし、明日の朝までは目を覚まさないそうですから、今日はそっとしておいてあげましょう」


 良季は話しながら清照のそばまで行くと、その肩にそっと手を置いた。


「……あなたは大丈夫なのですか?」


 途端に、清照の顔がくしゃりと歪んだ。


「……良季さん」

「はい」

「侑生がこんなふうになった原因って……珪己ちゃんにあるんでしょ……?」

「いや、そのようなことは」

「でもそう言ってたじゃない! 侑生がそう言ってたじゃない……!」


 昨夜、顔面に大怪我を負った侑生を見て清照が半狂乱に陥ったとき、侑生はひどく落ち着いた声でこう言ったのだった。


『大丈夫ですよ、姉上。私は生きていますし、生きるために必要なものは何一つ失っていません』


 そのときの侑生の様子は、昨晩、宮城に行く直前、この部屋で紫袍を身にまとったときと同じだった。自分にとってとても重要なことを決意したときの、ぶれることのない信念が言葉の一つ一つに宿っていた。


 言葉を失くした清照に、侑生は胸に手を添え、満足げにこうも言ったのだった。


『愛はここにあります。だから大丈夫です』


 この姉と弟の会話を良季もそばで聞いていた。侑生は明瞭にこの件について姉に説明しなかった。だが適切な言葉などなくても、姉は弟の真意を完璧に理解してしまったのである。


 激情に駆られた清照であったが、それは一瞬のことだった。すぐに落ち着きを取り戻し、やがてつぶやくように言った。


「私……分かっていなかったのかもしれない」

「何を、ですか」

「私と侑生は違うってこと。人は誰も同じじゃないんだってこと……分かってなかったの」


 化粧をしていないことでやや幼くも見える清照の素肌が、こんなときだというのに良季には美しく思えた。透明感があってみずみずしい肌だ。その頬は良季が清照の存在に気づく前から涙に濡れ、感情の高ぶりに赤く染まっている。


「……どうして今」


 どうして今そのようなことを言うのですか、と続けようとして、それは清照によって遮られた。


「侑生がどういう気持ちで過ごしてきたのか、全然分かってなかったの……。人を愛するって、ただその人を愛すればいいっていう単純なことじゃないのよ。自分のこれまでのすべてを踏まえて、それを基にして生まれる感情なのよ……」

「清照殿……?」

「侑生が何であんなにかたくなに珪己ちゃんへの分かりやすい恋心を否定していたのか、ようやく分かった。侑生は……あの子は自分がそういう人間だって知ってたんだわ。これが愛だって認めてしまったら自分のすべてを捧げてしまうと分かっていたから、だから……」


 まるで突如悟りをひらいた賢人のように、高ぶる心のまま、清照が語っていく。その鋭い双眸に眠る侑生をしっかりと見据えながら。


 その目に映る弟は、まさに清照が言うとおりの人間だった。傷つくことを厭わず、また、傷つくことで愛を得られるのであれば喜んでその身を差し出してしまうような、そんな非常に危うい人間だった。そうとしか思えなかった。


「清照殿は侑生の……あなたの弟の過去をご存じなのですか?」


 良季の慎重な問い方に、清照はその意図を感じたが正直に首を振った。


「なにも知らないわ。私はなんにも知らない。……知らないほうがいいと思っていたの。誰にも話せないような辛いことなんでしょ。だからこそ知らないふりをしていたほうがいいと思っていたのよ。私もそうだったから……」

「……すみません。ぶしつけなことを訊いてしまいました」

「私はいいのよ、私は……」


 ふらふらと、清照は寝台のほうへと歩みを進め、侑生のすぐそばに膝をついた。そこでようやく清照の瞳に映る冷徹な色が消え、代わりにこの眠る弟への気遣いと愛おしみで満ちていった。


「私なんかより侑生のほうがよっぽど強くて真っ直ぐだわ。愛すると決めた途端こんなふうになるんだもの。でも侑生はたぶんきっと後悔なんてしていないわね。そういう弟だもの……」


 清照が良季に振り返った。


「侑生が目覚めたら……私はなんて言ってあげたらいいと思う?」


 新しい涙がこぼれ、清照はうっすらと笑った。


「よくやったわねって褒めてあげたほうがいい? それとも、もうそんな愛は捨てちゃいなさいって怒ってあげたほうがいい? それともいっしょになって泣いてあげればいい? 良季さん、私は侑生になんて言ってあげればいいのかしら」


 そして最後に、苦しげに胸の最奥につかえていた疑問を吐き出した。


「愛って本当にすばらしいものなのかしら……。良季さん、愛って一体何なのかしら……?」


 その質問に良季は答えることができなかった。


 愛とは一体何なのか。

 愛とはすばらしいものではないのか。


 なぜ侑生は愛によって傷つき苦しんでいるのか。

 愛のために人はその身を滅ぼしてもいいのか。


 その瞳、その命よりも、侑生の望む愛に価値はあるのか。


(珪己殿への愛を示すために侑生がした選択……それで私たちが苦しむことを侑生は分かっていたのだろうか……)


 分かっていてもどうしようもなかったのか。

 分かっていなかったからこその衝動ゆえの結末なのか――。


 良季は清照に近寄ると、そっとその身を抱きしめた。


「家族が傷つけば悲しくなるのは当然です。その悲しみは誰にも止めることはできません。だから清照殿……もっと泣いてもいいのですよ」

「うん、そうする……う、ううっ、うううっ……」


 最初はこらなえながら、やがて我慢することなく、清照は良季の胸に顔を押し付けて泣きに泣いた。泣き止むまで、良季の手はずっと清照の背をなでていた。優しく、そっと労わるように。



 *


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