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5.任せろ

 雨に濡れるのもかまわず、仁威は人の波の中を走り抜けていく。


 今日も街中は多くの人が行き来しており、気をつけていても何度も通行人にぶつかった。そのたびに口だけで謝りながら、睨まれながら、それでも仁威は駆けつづけていた。息は荒く、その必死の形相とずぶ濡れの姿に、気づいた者の多くは気負されて道を譲っていった。




 楊珪己の姿が見えなくなったことに気づいたのがつい一刻前のこと。


 だが玄関には珪己の沓はなく、自発的に寺を出たことは容易に察しがついた。そこでまず一つ安堵し、その後は己の不注意さを責めながら一路楊家へと向かったのである。


(俺は本物の大馬鹿だ! 自分のことばかりに気がいってしまっていた……!)

(本来であれば守護すべき楊珪己のことを第一に気にかけるべきであったのに!)


 他人に事情を説明すれば、成長途上の少年のごとき間抜けな失態だと、笑われ、蔑まれるだろう。


(俺は本当に大馬鹿だ……!)


 後悔の念に苛まれながらも楊家に着くと、幾多の家人が気安く近づいてきた。つい最近まで朝稽古のためにここへ日参していたから、誰もが仁威のことを覚えているのだ。彼らは格好の話し相手が来たとばかりに、昨日起こった出来事をぺらぺらと語りだした。それらは貴重な情報ばかりで、昨日の楊家襲撃にはそういう側面があったのか、楊珪己を救うことばかりを考えていたが楊家の方も襲われていたのか、と驚きつつ、仁威は彼らがこれ以上を語るのを途中で制した。


「楊珪己はここへ来ましたか?」

「ええ、先ほど」


 弁当を持ち古亥の家へ向かったと聞くや、仁威はすぐさま楊家を飛び出したのである。




 ――それから。


 仁威は全速力で古亥の家へと向かっている。昔、何度か寄ったことがあるその家はそれほど遠くにはない。休日でしかも雨という今日のような日は、どこかで馬を借りるよりも、こうして足を使って駆けた方が早い。


 なぜ珪己が仁威に何も言わずに寺を出たのか。


 察しがつくから、仁威は珪己のことを責めることはできなかった。


 何も言わず出てきて、一夜が明け、自宅で父親が心配しているだろうから。

 襲われた道場の者たちのその後のことが心配だったから。

 今もまだ非常に厳しい危険な状態にあることを知らなかったから。


 ――どれもすべて、仁威が珪己に必要な情報を与えなかったからだ。


 どれだけ後悔しても仕方ない。


 と、仁威の耳が、細く鳴る金属音をとらえた。鳥のような、だが異様なほど長く細く続くその人工音は、震えることなく一本の線のように一か所から四方八方へと伝ぱしていく。


 その音の発信源は、間違いなく鄭古亥の家のあたりだ。


 気づけば、仁威の足は無意識のうちに大きく前に出ていた。さらに速度をあげて駆けていく。


(間に合ってくれ、頼む……!)


 昨日の豪雨によって道にははけきらない水たまりがいくつもある。それらにかまうことなく仁威は走る。せっかく隼平が持ってきてくれたこの着衣、裾の方はすっかり泥水で濡れてしまっている。ふくらはぎに濡れた衣が張り付いて走りにくいことこの上ない。だが今は走ることしか考えられない。


 もう少しで古亥の家、というところで、また同じ音が聴こえた。

 ここよりもだいぶ遠いところから、ぴいいっと音が伝わってくる。

 古亥の家にいる者が鳴らした笛に、誰かが応えたのだ。


 仁威は歯を食いしばった。





 遠くの方で、かき消されそうなほどに小さな音が聴こえた。


 ぴいいいいっ……。


 侵入者がその目を動かし、やや遠くを探るような顔になった。


 その一瞬がきた、そう感じた。

 今を逃せば勝機はない、そう珪己は感じた。


 それは隣にいる古亥も同じで、すぐそばにいることで溶け合っている二人の気が、お互いに次の行動を知らせた。


 言葉はいらない。


 珪己と古亥、二人同時にすり足で男との間合いをつめる。はっとした男は、今いる場に意識を戻し二人に正面から向かい合った。それでも二人の動きは止まらない。止めてはいけない。止まったら――そこには敗北しかない。


 珪己は大きく振りかぶるかのように、長い箸を男に突き付けた。それを男は後退することなく、上げた腕、手首でもってはじいた。そしてもう一方の手に持つ武器を反撃とばかりに繰り出してきた。


 あわや刺される、といったその瞬間が、実は二人が語らずして作り上げた最大の策だった。この男、珪己が王子にとって重要な人物であることを知っている。だから男は珪己を傷つけるような真似はしないだろう、そう読んだのだ。


 実際、男はその武器を珪己に向けることに幾分かためらう仕草をみせた。本来であればもっと素早くふるうことができ、確実に珪己をしとめることができるはずなのに、それをしなかった。


 代わりに、繰り出しながら、男はその手の中で剣を回転させ、先端を肘のほうに向けて隠した。そしてつかでもって珪己を気絶させようと試みてきた。


 それもまた二人にとっては予想どおりで、わざと動きを遅らせていた古亥が、次の瞬間、光のごとき高速で動いた。


 背の高い男の懐にまで小柄な体ですっぽりと潜り込むや、男の心臓狙って箸を突き立てたのである。


 ――まったく、一切のためらいもない一撃だった。


 昨日、珪己がイムルの肩を簪で刺したとき以上に嫌な音がした。吹き出した血の量も比較にならないほど多い。だが敵も武芸でもって生きている人間なだけあって、致命傷となる攻撃を受けてもその手から武器を取り落とすことはなかった。なんとしてでも任務を遂行しようと、その目がぎろりと珪己を見下ろしてきた。


 だから珪己も動いた。昨日、イムルを刺して流れ出た血に動揺したことなど忘れて動いていた。


 次の瞬間、珪己の箸が男の脇腹に深々と突き刺さった。


 古亥の攻撃と同じくらい嫌な音がし、それは箸の長さに比例するかのように長く響き続けた。ずぶずぶと肉の中に箸が入り込んでいく感触は、興奮状態にある珪己の動きを阻害することはなかった。


 体の奥まで箸を差し込まれたことで、とうとう男の動きが止まった。苦しげに咳き込み、ごぼっと、血を吐いた。


 古亥がすぐさま次の業を仕掛けた。


 男の背後に回るや、人の体の弱い部分、膝裏の関節に足をのせ、一気に体重をかける。抵抗しない男はがくっと体勢を崩し、そのまま地面に膝をついた。古亥はそのまま男の利き手の腕を曲げ、易々と背中で押さえこんでいく。闘いの場において、背中をとられるということはもはや決着がついたも同然だった。


「師匠っ!」


 息のつけぬ緊張した場から一転、晴れやかな顔となった珪己を、しかし古亥は鋭い目つきで睨んだ。


「さあ早く行けい!」


 まだ闘いは終わってはいない。


 古亥の目は雄弁にその事実を語っている。血を流し屈服させたら終わりではないのだ。



 *



 声を掛けることなく仁威がその戸を開けると、そこには想像以上の光景があった。


 入口すぐそばに大柄な男が倒れている。

 その背中を器用に押さえこんでいるのは片腕に添え木をする老人。


 その横にいるのは――楊珪己だ。


 古亥は仁威の登場に驚くことなく、ただその視線を珪己から仁威のほうへと移した。


「おお、ちょうどよかった。さあ、珪己嬢を連れていってくれ」


 その足元の男、まだぴくぴくと震えているのは間違いなく芯国人だ。男の隣には血に濡れた箸が一本転がっている。もう一本、それよりも長い箸が男の脇腹に刺さっている。話にだけは聞いていた、イムルの屈強な配下の一人とは間違いなくこの男のことだろう。このような男を相手に、か弱い二人が勝利を収めてしまうとは……。


 だがこちらをきつく睨む古亥は、高齢者らしい外見や負傷した姿はさておき、やはり相当の手練れだった。


「いつまでもここにいては危険だ」

「ええ、俺も先ほど二つの笛の音を聴きました」


 と、またその笛と同じ音が聴こえた。先ほどよりも大きく聴こえたということは、敵がこの家に近づいてきているという証拠だ。


「ここは儂に任せろ」


 そう言った古亥の意志を覆すだけの理屈も余裕も、二人にはまったくない。


 この過去の上司に甘えて逃げることだけが、今の二人が選択できることだった。


 それが理解できたから、仁威は即座にうなずいた。すると古亥はてきぱきと指示を出し始めた。


 仁威は古亥に言われるとおり、珪己が持ち込んだらしい弁当の蓋を閉め、元のとおりに大布でくくった。その隙に古亥が男の脇腹に刺さる箸を抜いた。抜いたそばからさらなる血が流れ出したが、男はもう命の灯を消しているようであった。その証拠に抜く瞬間ですら男はぴくりとも動かなかった。


 古亥は男の背から離れると、その長い箸をよく拭き、無言で仁威に手渡した。弁当、そしてその長い箸は珪己がここに持ち込んだものだ。だが古亥は普通の箸――男の胸を貫いた箸は隠匿しようとしなかった。今も男の横に血塗られた箸は転がったままだ。


 二人が動いている間、珪己はなかば放心していた。


 てきぱきと冷静に動くことができる二人がおかしくも不思議に思えていた。


 ここで今、人が一人が死んだのだ。

 そしてとどめを刺したのは――間違いなく自分なのである。


 箸を刺した瞬間の感触が思い出される。深々と刺し込んでいったときの肉のはじける感触が思い出される。ずぶずぶと、ぐちゃぐちゃと……。思い出したいわけでもないのに、強制的に、何度も繰り返される殺しの瞬間。刺して、血が出て、刺して、血が出て……。


(おかしく……なりそう……)


 珪己は顔を覆って耐えていたが、やがて我慢できずに頭を掻きむしろうとした。だがその手は仁威に制された。


「今は感傷にひたっている場合ではない、行くぞ!」


 そういうや、仁威は珪己に琵琶を手渡してきた。反射的に受け取るや、空いたもう一方の手が仁威によって掴まれた。


 そして仁威は珪己の持ち込んだ物すべて、そして珪己を連れ、古亥の家を飛び出したのである。





 二人がいなくなると、家の中はしんと静まり返った。


 一人の老人と一人の死体、それしかない。


 だがそれも今だけのこと。すぐにでもここは騒がしくなるだろう。それを待つのも悪くはないのかもしれない。


 だがこの場を芯国人に荒らされ、わが身を利用されるわけにはいかなかった。


 だから古亥は貴重なその最後の時間を捨てて自ら家の外へと出た。


「袁仁威……。珪己嬢のこと、頼むぞ……」


 もう見えなくなりつつある二人の背中へとつぶやく。そしてすべてを振り切るかのように突如大声で叫んだ。


「おおーい! 禁兵はいるかあ! 誰か禁兵を呼べい! 儂は人を殺したぞ……!」

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