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4.やるしかない

 ぴいいいっっ……!


 鳥のような甲高く細い音が鳴り響いた。


「しまった!」

「師匠、あれは?!」

「あれは自分の居場所を味方に伝えるための笛だ!」


 古亥は芯国に秘密裏に侵入し軍事について調査した経験があるので知っていた。その笛は武官であれば誰もが首にかけているもので、敵襲を察知した時など、緊急事態を周囲に伝えるために使うという。だがなぜそれを古亥が知っているのか、珪己は追及することができなかった。


 そのような疑問を解消することより、今はやるべきことがある。そういう表情を古亥が見せている。


「まずいぞ嬢、逃げるんだ」


 その顔は非常に険しく、確かに過去に武官を務めたことがある男らしい顔となっている。


「あいつらはなぜか嬢を探しているんだ……!」


 その『なぜかの理由』を珪己は知っている。だが古亥はイムルの攻撃によって気絶していたので知らない。


「もたもたしているとすぐにここに奴らの仲間がやってくるぞ。急げ、逃げるんだ!」

「で、でも……」


 珪己は古亥の顔、そして戸に立ちふさがる侵入者の顔を交互に見比べ、声を上げた。


「でも逃げられません……!」


 逃げられない理由は二つある。


 一つは当然、唯一の出入口を塞がれているからだ。この屈強な男を、一少女の珪己と腕を負傷した古亥、二人がかりでかかっても倒せるかどうか。


 もう一つは……たとえ自分一人が逃げられたとして、残された古亥はどうなるのかという不安によるものだ。昨日イムルによって組み伏せられた古亥の姿は、今も珪己の脳裏にしっかりと焼き付いている。目の前で腕を折られ気を失った古亥の姿は、強烈な畏怖を持って記憶にしっかりと刻み込まれている。


 だが古亥はこの弟子の迷う心をあっさりと切り捨て、手に持っていた箸を動く片手できつく握りしめた。


「四の五の言っている場合ではないわ。儂が活路を開くからその隙に逃げろ」

「……でも師匠!」

「でももくそもない。儂は護ると決めたものは護るんだ。だからこれは儂の勝手だ。嬢が無事に逃げること、それが儂にとって一番大事なことだ」


 語りながら、古亥の目が見開かれていく。握る箸の先から腕へ、全身へ、熱い闘気を纏っていく。触れる敵を即座に切り捨ててしまえそうな、人を殺す覚悟を宿した気だ。それは普段の古亥からは想像もできない類のものだった。


 先ほど古亥の過去について聞いたばかりであったが、この急激な変化に珪己は内心では驚いていた。古亥の様子はまさに闘いを前にした武芸者そのものであり、命のやり取りを経験した武官でなければ身につけられない究極の闘気を纏っている。昨日、仁威から放たれていた気とまったく同じものだ。それをこのものぐさな師匠が……?


 ぼろぼろの身で、それでも闘いに挑もうとする古亥に、珪己もまた覚悟を決めた。決めざるを得なかった。弁当の中身を取り分けるための長い箸を取り上げるや、この師と同じように握りしめる。


「……嬢?」

「師匠、私も武芸者です。それに私は現役の武官です。私も闘います!」


 古亥はややためらうような表情をしていたが、やがてにやりと笑うと、すぐに元の調子を取り戻した。


「よし、では二人で奴をやっつけるとするか」

「……はい!」


 二人の意志が一致したことで、言葉は理解できずとも、交戦の意志があることが侵入者の男に伝わったらしい。男は後ろ手で戸を閉めるや、暗く陰った室の中、すらりと細く短い剣を取り出した。長さは湖国にある懐剣よりも短いが、刃の細さが特に目をひく獲物だ。折れそうなほどの細さは、昨日、イムルが珪己に授けた芯国の武器の知識のとおりで、しなやかな細身は普通の鉄剣と同等の強度を有するという。軽くて動かしやすい分、本物の戦場――立会いや稽古のような場ではなく命をやりとりする場――においては非常に便利だとイムルは言っていた。


「師匠、あの武器は見た目以上に剛で強いと聞きました。気をつけてください!」

「おうおう、分かっとるわ。だてに近衛軍の将軍だった儂をなめるなよ」

「ええっ! 師匠って近衛軍将軍だったんですか?!」

「その話はまたあとでな。今は目の前の敵を倒すことに専念しろ」

「は、はいっ」


 二人の会話に何を感じているのか。


 男はその屈強な体に似合わない小ぶりな武器を構え、慎重にこちらを観察している。


 男は昨日、古亥とイムルが闘う現場にいた。だから古亥が手練れであることは十分理解している。片腕を負傷しているが、武芸経験があるというこの少女が古亥を補うことで、この場の闘いに裕度はないと見込んでいる。主人であるイムルに比べてこの男は生真面目だった。闘いの中に楽しみを見出す気はまったくなく、愚直に任務を実行しようとするのみである。


 味方が来るまでこの場に少女を縫いとめておければいい。


 一方、珪己と古亥のほうは悠長なことを言っていられる状況ではない。早くこの場から立ち去り身を隠さなければ、途端に昨日の二の舞に逆戻りしてしまう。ここに多数の芯国人が結集すれば、またも誘拐されてしまうはめになるからだ。


 だが焦りこそはこのような場において禁物だ。


 古亥はゆっくりと寝台から降りた。そして珪己と二人、相手方の様子を探りながら近づいていく。


 昨日、イムルと対峙したときとまったく同じだ。この勝負も一瞬でつけなくてはならない。


 何度も刃を交えられるほど立派な武器を二人は有していない。二人が握っているのはただの箸だ。それは相手も同じこと。懐にしまえるほどのごく短い剣、それだけだ。となれば、第一手はお互いに武器を利用することになるが、二手目、三手目は必然的に体術を利用せざるをえないだろう。


 つまり、肉体と肉体との勝負になる。


 それはこの場において、今の二人にとって非常に不利な展開だ。


 いや、絶対に選択してはならない展開だ。


 闘いに勝利する策とは何か。それは闘う前から勝機のある道を選択しておくこと、これに尽きる。何があろうと勝てるように準備し、それから闘いを開始する。それがもっとも確実で賢明な策だ。それは昔からよく知られている兵法の一つである。負ける可能性があるのであれば、最初から闘うことを選ばないというのも良策だ。


 だが今、二人の前には、その「絶対に勝てる道」はない。そしてすでに逃亡不可能な闘いは始まっている。だから「闘わない道」は選べない。


 つまり――やるしかないのだ。

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