3.すべて言うよ
開陽の街は、休日がもっとも賑わしい。
官吏のような公的な場所で働く者は揃いも揃って街へ遊びに繰り出すし、彼らの訪れを心待ちにしている商売人は平日以上に声を張り上げて目まぐるしく動いている。しとしとと降る雨ごときでは開陽に住む者たちをくじけさせることはできない。昨日の突然の豪雨の分を取り返さんとばかりに、今日の街は活気に満ち溢れていた。
けっして細くはない大路を行く楊家の馬車は、あまりの人の多さにゆっくりとしか進まない。しかし珪己はそれに焦ることもなく、ただぼんやりと窓の外、街の様子を眺めていた。
そこにあるのはいつもの街の姿だった。よくよく見れば、ひとりひとりの顔は違うだろうし、先週ここにいた人物は今日はいなかったりするのだろう。だが、遠巻きにこうして見れば、街の姿はまったくもっていつもどおりだった。
自分だけが大きく変わってしまったような不安な気持ちに、珪己は胸の前でぎゅっと手を握った。雨が落ちてくる空は、見上げれば今日も曇りがかっている。厚く覆われた雲によって空には何も見えない。太陽も、澄んだ青い空も、何も見えない。
――当然月も見えない。
白色化した姿ですら見ることはできない。
雨の続くこの半月の間、開陽の街を月光が照らすことはないだろう。
こういうときこそ、その姿と光に癒されたいのに……。
思考にふけっていたせいで、御者に声をかけられるまで、珪己は馬車が目的地に到着したことに気づかなかった。焦点を合わせると、確かに窓の外には見覚えのある長屋があった。
「ここで待っていましょうか?」
そう提案されたが珪己は断った。帰りはその辺で行きと同様に流しの馬車を捕まえようと思っている。父が枢密使という高位の官吏なだけあって、楊家の馬車は街で乗るには派手すぎるのだ。それに楊家の馬車で寺に戻ろうものなら、せっかく黙って出てきたのに、仁威に何を言われるか分かったものではない。
珪己は馬車を降りると、片手に弁当、もう片手に琵琶、それに荷造りした袋を背中にしょった。その様子を御者が不安そうに見つめていることに珪己は最後まで気づかなかった。準備を終えて顔をあげた珪己は、御者のよく知る少女らしい無邪気で快活な表情になっていた。
「それじゃ、またね」
「お気をつけて」
御者は珪己が長屋へと歩いていくのをしばらく眺めていたが、やがて命じられたとおり屋敷へと戻っていった。
珪己は古亥の家に着くと、戸を軽く叩き声をかけた。
「鄭師匠、いますか?」
「……おう」
弱々しいが声は聞こえた。珪己はそれを了承の意ととらえて遠慮なく戸を開けた。
古亥は狭く薄暗い家、一部屋しかない室の奥において、小さな寝台に横たわり、その顔だけを珪己に向けてきた。室内が暗いせいか、視界に入った古亥の顔には影が見え、それが珪己に不安な気持ちを生じさせた。それでも「こんなところまで来るとは珍しいなあ」と、古亥の口が悪いのは相変わらずだった。
その様子に珪己の緊張も少しほどけた。よく見れば顔色も悪くはない。珪己は室に入ると寝台のそばの小さな机の上に弁当の包みをどんと置いた。珪己は古亥に十二分に慣れ親しんでいるから、今更二人の間に形式張った挨拶も断りも不要なのだ。自分の荷物と琵琶は机の下に置いた。
「はい、師匠。ちゃんとご飯食べてないだろうからって、うちの家人が丹精込めて作ったお弁当です」
「おおそうか、すまんな」
古亥はゆっくりとではあるが自力で体を起こした。
「だがなあ。儂にだって食事を届けてくれるような女の一人くらいはいるぞい」
「ええっ。本当ですか!」
「本当だわ。儂のこの格好よさを女がほおっておくわけがなかろう」
嘘か本当かどうか分からない古亥の物言いに、珪己は思わず笑ってしまった。珪己の笑顔に古亥がその目を細めた。それは厳しい稽古の合間に古亥が時折見せる優しい表情だった。落ち着きと優しさに満ちた古亥の顔つきに、珪己はここに来てすぐに実行しようと決めていたこと――イムルとの諍いに巻き込んでしまったことへの謝罪――について触れることができなくなった。
そんな自分をごまかすように、珪己は台所へと行くと箸と皿を適当に持ってきて、寝台の横にある椅子に腰を降ろした。
「あの……腕はどんな感じですか」
「うん? こうして添え木をしていれば自然と治るわい。はっはっは」
「……さすが師匠ですね」
あれほどの闘いのあとでこうも朗らかでいられる古亥は、やはり尊敬に値する師匠だ。心の強さが自分とは雲泥の差だと思いつつ、
「……なんだか師匠を見ていると、袁隊長のことが思い出されます」
心で思ったことがそのまま口からこぼれていた。
「袁?」
「はい。あ、袁隊長は私の武官としての上司です。でも……なぜでしょうね。袁隊長と鄭師匠って、不思議と似ているんですよね。年齢も背の高さも顔も、全然違うのに。同じ武芸者だからでしょうか」
「それは儂が元武官だからかもしれないな」
突然表明された事実に、弁当を開いて皿に取り分けようとしていた珪己の手が止まった。
「えええっ! 師匠って武官だったんですか?!」
「そうだ。ああ、儂はその肉と饅頭が食べたい」
古亥にうながされ、珪己は指示された通りにそれらを皿へ盛り手渡した。が、やはり釈然としないものがある。
「……なんでもっと早くに教えてくれなかったんですか」
「訊かれなかったから言わなかっただけだ」
「知らないのに訊けるわけないじゃないですか! 私はてっきり」
「仕事にあぶれた孤独な老人が気まぐれで道場を始めた、そう思ってたか」
「そ、そんなこと思ってませんって」
だが半分以上は図星で、珪己はくやしそうに古亥を睨んだ。
「なぜ武官を辞めたんですか?」
「武官でいられなくなったからさね」
そしてなんてことのないように古亥が言った。
「この怪我が治ったら、儂が嬢に由緒正しい武官の業を教授してやろう」
「またまたあ。何を言っているんですか」
いつもの冗談だと真面目に受けとろうとしない珪己に、古亥がもう一度言った。
「稽古をつけてやる。そして嬢のことは儂が真の武芸者にしてやる」
「……師匠?」
「そしてその時がきたら、すべて嬢に言うよ。儂がなぜ武官を辞めたのかを」
真剣にこちらを見つめてくる古亥は、嘘や冗談ではなく、本心からそう語っていた。
とても大事な話を打ち明けようとしている。
そのことに珪己の背筋がぴんと伸びた。
「はい。分かりました。その時がきたら教えてくださいね?」
「……ああ」
古亥の表情が和らいだ。
すると突然、その表情が極度こわばった。
それとほぼ同時に、この家の戸が許可なく開かれた。
そこには芯国人が一人いた。
なぜすぐに芯国人だと分かったのか。それは昨日道場にいた、イムルの供のうちの一人だったからだ。
その男は珪己を見るや、襟もとに手を入れ、紐にくくった小さな物体を取り出した。湖国では見かけないそれは、一見、ただの珍しい首飾りのようだ。
だが、そのにぶく光る物体が躊躇なく男の口に当てられるや、
「いかんっ……!」
寝台で古亥が身じろぎした。だがそれよりも早く、それは実行された。




