2.最後の帰宅
ようやくたどり着いた道場は無人だった。
何も壊れた物もなく、まるで昨日の出来事が夢幻であるかのように錯覚できるほどだ。
しんと静かな室内に、珪己は息を飲み、しばらくしてようやくほっと安堵の息を吐いた。
隅の方に酒壺が一つある。場違いなそれは、珪己が昨日ここに置いてそのままにしてしまったものだ。拾い上げて確認すると、どこも割れておらず中身も無事なようで、珪己の顔にゆっくりと笑みが広がっていった。
次に隣の自宅へと戻った。
無断外泊した自分のことを父はどれほど心配しているだろうと、怒られることも覚悟して門をくぐると、珪己の姿をみとめた家人らが一斉に声を上げて賑やかに珪己を取り囲んできた。
「お嬢様! もう体調はよろしいのですか?」
「急なご病気になられたと聞いておりましたが、もう戻られても大丈夫なのですか?」
「……え? え?」
珪己の疑問に答えるものはなく、誰もが自分勝手に話していく。
「昨日はとても大変なことが起こったのですよ」
厨房を担当する、まだ年若い女が恐ろしげに両手で体を抱きしめた。
「そうなの?」
「そうなんですよ、昨日ここに賊が入り大変だったんですよ!」
賊と聞いて、ようやく合点がいった。
「でもその賊、金目のものも何もとらずにいなくなってしまいました。不思議な奴らでした」
ここにいる者全員、昨日は脅され縛り上げられ、大変な思いをしている。まだ若い者ほどそのときの恐ろしさを思い出すだけで体が震える有様だ。が、結局、賊たちはそれ以上の酷いことはしなかった。賊たちの動きは手慣れたもので、楊家にいた者全員、誰一人傷つけられることなく、あっという間に拘束されてしまっただけだ。
八年前、この屋敷が武官に襲われたのち、玄徳は新しく家人を採用し直す必要に迫られている。その際玄徳は武芸にうとい者ばかりを敢えて選んだ。下手に腕が立つと襲撃者と闘うことを選んでしまい、より一層悲惨な結果を生むかもしれないからだ。実際、八年前、特に強者の家人の死体の損傷がひどかった。闘うという行為を介して、人を傷つけることへの抵抗感がなくなる怖さを、玄徳は身にしみて分かっているのだ。
だからだろう、今、興奮気味に熱くしゃべる家人らの多くは、昨日のことを刺激の強い非日常体験の一つとして捉え始めていた。治安の良さが売りの開陽という街に住む者ならではの感覚、でもある。
「枢密院の方が二人、偶然やって来られましてね。すぐに全員助けてもらえました」
「二人?」
「はい。お二人はご自分のことを李枢密副使、それに高枢密院事だと名乗られました」
「そうそう、お嬢様。李副使は昨日、お嬢様に会いに来たとおっしゃっていましたよ」
侑生がわざわざ楊家をたずねてきた理由について考える間もなく、別の家人が思い出したように大きな声をあげた。
「そうだ! お嬢様、昨日は道場のほうは無事ではすまなくて、道場主が意識不明の重体となったんですよ!」
「師匠は今は?」
珪己の強い興味をひいたことに、この家人の顔がほころんだ。
「意識のない道場主が連れ出されていくところは見ましたよ。どこかから呼んできた医官もついていて、命に別状はなさそうだと診断されているのをこの耳で聞きました」
「そう……よかった」
ほっと珪己が胸をなでおろすのを見て、幾人かの家人は、自分たちが無遠慮に昨日の出来事を楽しみすぎていることにようやく気づいた。お互い気まずそうに視線を合わせ、頭を下げる。
「お嬢様、すみません……」
「え? どうして?」
「ああそうだ。これから道場主の家へお見舞いに行かれてはどうですか」
一人の家人の提案に、罪滅ぼしのようにこの場がわっと湧いた。
「そうですよ。お会いすればきっと安心しますよ」
「これからすぐに日持ちのしそうなもので弁当を用意しますから差し入れに持っていってください。一人者の道場主ですし、食事にお困りなのではないですか」
「お嬢様の分も作りますね。お二人でゆっくりと精のつくものをたくさん食べてきてくださいよ」
「では馬車も用意しておきましょうね」
わいわいと騒ぎながら、先んじて数人がそろって厨房に消えていく。場が収まったことで、他の家人らもようやく自分の持ち場へと戻っていった。
そのうちの一人がふっと気づいたかのように振り返った。
「お嬢様は今日も別宅へと戻られるのですよね? 旦那様の話だと一か月くらいはそこで養生すると聞いておりますが」
この場の急な展開についていけなかった珪己は、とどめのように言われたその発言に、ようやく話の源にたどり着いた。
「そ、そうね。まだ回復するまでしばらくはかかりそうなの」
それだけを言うと、珪己は急いで自室に逃げ込んだ。これ以上家人と会話をしていたらボロが出てしまう自信があったからだ。
物心ついた時から一人で使っている部屋だから、一歩足を踏み入れただけで、馴染みある雰囲気に珪己の心は自然とほぐれていった。ここに戻るのは昨日の昼以来だ。ただ、この部屋に満ちる空気は今の珪己にはぴったりとは同調しなかった。たった一日の経験によって、この部屋に溢れる思い出たちを遠く感じる自分に珪己はやや戸惑った。そう、まるで大人になるために子供時代を捨ててしまったかのような、郷愁に近い切なさを感じたのだ。
珪己は首を振り、感傷的な気分を強引に追いやった。そして、まずは、と、昨日から着ている湿り気のある衣服を威勢よく脱いだ。続いて清潔な乾いたものを身に着けていく。さっぱりとして心地よい肌触り、それだけで生き返るかのような爽快感を得た。
そして珪己は、自分でも家人らに首肯したとおりに、長期滞在になることをふまえた荷造りをはじめた。昨日華殿に入るために用意していたものを一度すべて袋から出し、あらためて選んだ物をつめていく。寺での生活には女官の衣や華やかな装飾類は不要だ。化粧品もいらない。武官の官服もいらない。今着ているような街娘のような服を数枚と、髪を結うための数本の紐、質素な簪、それに寺に納める金子がいくばくかあれば十分だろう。袋からは仁威にもらった珊瑚の簪も出てきたが、なんとなくで袋に詰め直した。
ふと、室の隅に置かれている琵琶が目に入った。
立ち上がり、近寄り、そっと触れる。木の肌は滑らかでひんやりとした。
(これを宴で弾いたのがすごく昔に思える。なんだか不思議……)
いくつもの曲をほぼ休みなく弾いた、あの夜。あれほど一心不乱に琵琶を弾いたことはない。
あの夜、珪己は琵琶を弾くことに己のすべてを注いだ。武芸の稽古とはまた違った集中力でもって、指と頭、それに精神を酷使した濃密な時間を過ごした。正直、もう一度同じ演奏ができる自信はない。一夜限りであったからこそ成し得た演奏だったように思う。自分の限界に挑戦するという機会はそうそう無い。だからこそ、珪己はあの夜に感謝している。演奏を引き受けてよかった、そう思うのだ。
だがあの夜がきっかけで多くのことが変わったのも事実だった。
「お嬢様、準備ができましたようです」
戸の向こうから声をかけられ、はっとした。
「今行くわ」
荷物をつめた袋を手にとり、なかば無意識に琵琶も手にとり、珪己は部屋を出た。
――そしてその生涯において、楊珪己がこの室に戻ることは二度となかったのである。




