1.単独行動
楊珪己は寺の中、与えられた寝室において無駄に時間を消費していた。
休日のこの日、雨季に入ったこともあり、このような小さく質素な寺に訪れる者は誰もいない。だが隼平が急用といって寺を去り、桃林が托鉢があるからといなくなり、寺にいるのは仁威と珪己の二人だけとなってしまった。
「君たち兄妹にはしばらくこの寺で過ごしてもらうからね」
食事の後、茶をすすりながら、まるで決まったことのように言う隼平に、珪己は深く理由を追及できなかった。桃林の手前もあり仕方なくうなずいてみせたが、本当は訊きたいことは山のようにあった。
しばらくとはいったいどのくらいの期間なのか。
なぜその期間が必要なのか。
芯国の王子とのことはどうなりそうなのか。
これから自分はどうなりそうなのか。
それらの一つもはっきりさせることなく、隼平は言いたいことだけを言い、そして一人どこかへと出かけてしまったのである。
しかし仁威に訊けばいいかといえばそれも難しい話で、会話以前に、二人だけの空間にいることも今の珪己には耐え難いことだった。
昨夜この上司と肌を触れ合わせたこと、そしてその後の英龍との秘密の一件。これらは乗じて、珪己本来の素直であけっぴろげな言動を阻害した。複数人がいるときはどうにかごまかせた。だが二人きりとなると……平常心でふるまえなくなる。
珪己は仁威をまともに見ることができず、仁威もまた珪己を直視しようとはしなかった。二人、目の前の茶を干すことに意味もなく集中し、どうにかしてこの場をやり過ごそうとした。その不自然さはお互いに分かっていた。だが二人の間の見えない何かが狂ってしまったのだからどうしようもない。以前、この上司に無理やり口づけられた時とはまた別の空気が生まれてしまった。昨夜の上司の行動は武官同士であれば当然の行為、そう頭では理解しているのだが、その行為の延長線上に英龍の行為を思い出してしまうのは止めようがなかった。
同じ室内にいることすら辛く、ついには珪己の方から席を立ち逃げ出していた。焦る仕草で昨夜の寝室へと戻る珪己を、仁威は止めることも追うこともしなかった。
そして今、寝台しかないこの部屋で、珪己はあらためて昨夜について考えをめぐらせようと試みていた。起こった一つ一つはどれもわが身にとって大事なことばかりだからだ。
だが、生じた事実のどれもが刺激が強すぎて、珪己は早々にその試みをあきらめるほかなかった。
すべてはもう起こったことばかり。であれば、あれこれ考えても、もうどうしようもないのだ。過去を変えることなど誰にもできやしない。これから選択できることは未来に関することだけだ。
何の言葉もなく、約束もなく、今朝、気づけば英龍はこの部屋から姿を消していた。
次いつ会えるのかも定かではない。
あの人に会いたい――そう珪己は思った。
会えば今のこのやるせない気持ちの幾分かは解明できるはずだ。
(私はいったいどういう存在で、何ができるのだろう?)
その問いが不意に芽生えた。
(こうして何かが起こるのをただ待っていて、本当にそれでいいのかしら?)
心を落ち着け、再度、過去の事象をゆっくりと遡っていった。
それにより、ようやく重要な懸念事項を思い出した。
(……道場のみんなは大丈夫なんだろうか。鄭師匠はどうしたんだろう)
少年三人と洪托と――それに武芸の師匠である鄭古亥。
思い出せば、どうして今まで気にならなかったのだろうと己の薄情さが嫌になるほどだった。
昨日、古亥はイムルに敗北し、その腕を折られ、殴られ、気絶した。動かなくなった古亥は白目をむき、口内は血の色で赤く染まっていた。
あれからどうしているのだろうか。命に別条はないだろうか。回復する見込みはあるのだろうか。折られた腕は元通りに動くようになるのだろうか。あの後、誰か道場にやってきた人はいるのだろうか。あのままの状態で放置されていないだろうか……。
気になり出せば、もうそれは珪己の思考のすべてを支配した。
(……道場に行こう!)
その決意はすぐに湧いて出た。
室を出て、廊下を曲がった向こうの広間の方を伺うと、その戸はきちんと閉まっていた。その内側に今も仁威は一人いることだろう。
珪己は仁威が枢密院から――つまり隼平から秘密裏に与えられた任務のことをよく理解していない。昨夜のイムルの所業から、自分が今もイムルに執着され追われている可能性があるはずなのに、そういったことまでは察してはいない。珪己にとって、すでにイムルのことは過去の一つとなろうとしていて、それを上回る英龍による行為が、今、珪己の警戒心を見事に弱体化させていた。
だから、今朝の仁威との居心地の悪さだとか会話のしずらさを鑑みて、自分一人で行動することを珪己は選んだ。逆に仁威に言うことで行動することを禁止されたくないとも思ったのである。
珪己は音を立てないようそっと廊下を歩き、広間の前を黙って通り過ぎ玄関へと出た。そこには自分の沓がきちんと揃えてあった。まだ濡れている沓を履き、珪己は一人寺を出た。誰からも咎められることなく、止められることもなく、珪己はあっという間に寺から抜け出し、途中で馬車を拾うと、一目散に開陽の中心部へと向かったのである。




