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7.君が決めるんだ

 玄徳は侑生ゆうせいを大切に育てたいと願っている。


 決して使い捨ての駒のようには思っていないし、数ある官吏の一人とか、使いやすい部下の一人だとか、そのようにとらえていない。


 侑生が科挙の最終試験、殿試で一位及第し「天子門正」となったとき、宮城内において、上位合格者だけを招いた定例の宴が催された。天子門正が十代の美丈夫とあって、この三年に一度の宴は例年以上に盛況となった。楽士も踊り手も普段以上に気合いが入っていたし、多くの官吏や貴族が、侑生とどうにかして仲良くなろうと、果ては自分の娘を妻に娶らせようと画策する者までいた。


 それらの誘いを侑生がやんわりと断るさまを、玄徳は杯を手に一人遠巻きに眺めていた。玄徳は侑生が科挙を受験したことを知っていたし、彼が一位及第を勝ち取った殿試――皇帝との問答――にも立ち合っている。侑生は湖国の軍事戦略に関する論文を事前に提出しており、当日、並いる立会者の前で、臆することなく皇帝その人に自論を説いた。そして受験者で唯一、見事に皇帝を説き伏せ納得させたのである。その時の斬新かつ的確な内容は枢密院の官吏らの間でもずいぶんと評判になった。玄徳は誰にもその胸の内を明かしてはいなかったが、この日、上級官吏の責務としてこの宴に来ることをずいぶん前から楽しみにしていたのだった。


 あの事変以来となった少年は、すっかり青年といえるほどに様変わりしていた。頬はすっきりとし、幾分か背も伸びていた。とはいえ真面目なところは相も変わらずだった。興味本位で近寄ってくる多くの面々すべてに、最初から最後まで丁寧に受け答えする様も然り。


 宴も終焉に迫り、場が落ち着いたころを見計らって声をかけようかと画策していると、侑生の方から玄徳の元へと近づいてきた。侑生と玄徳が会いまみえるのはあの事変以来、約二年ぶりのことだった。


『玄徳様』


 そう呼びかけてきた侑生の頬がひどく紅潮し、それと相反して杯を持つ手や声が震えていたことを、玄徳は今も覚えている。玄徳の前に出て、その名を呼べるだけで、最大限の幸せと緊張にあてられていた侑生を……。


『私は枢密院への所属を希望しました……!』


 突如そう宣言した侑生からは決意の強さが感じられ、玄徳はそれを若者特有のものと一瞬勘違いした。あの事変をそのように前向きに乗り越えようとする心の強さに、まだ妻を失った悲しみが十分に癒えていない玄徳は、うらやましさを感じつつも、心から応援したいと即座に思った。


 だが次に侑生が放った言葉は――。


『私めをぜひ玄徳様のために、玄徳様の考えられる枢密院のためにお使いください。私は一生を玄徳様に捧げたいのです』


 めまいがした。


 このとき言うには刺激が強すぎた反論を、この初春、玄徳はついに侑生に発した。『人は誰かのためだけには生きてはいけないんだ』と。あのときそれを言えば、侑生は己を失ってしまいかねない精神状態だったから……これまでずっと言えなかったのである。


 そういう侑生だったからこそ、玄徳はこの部下を引き取るや丁寧に根気よく育ててきた。数々の仕事を通して、自分への信頼を取り戻すこと、己の価値を知ること、この二点に特に注力してきたつもりだ。


 だからこそ、侑生をそろそろ自分や楊家から解放したいと玄徳は考えている。ただ、すでに枢密すうみつ副使ふくしにまで引き上げてしまった手前、また、枢密院の官吏は生涯を武殿で過ごすという不文律のため、何か良い機会を探す必要があった。


 吏部りぶには半年前から目を付けていた。吏部りぶ尚書しょうしょの働きの悪さに、短気かつ完璧主義者の公蘭の我慢が限界にきていたこともあり、その時はすぐにやって来ると玄徳は踏んでいた。そして昨日、とうとう公蘭とこの件について具体的に会話する機会を得た。


 玄徳は侑生を今と同位の侍郎じろうとして異動させ、そのまま中書省ちゅうしょしょうで末永く活躍してほしいと考えている。たとえばそれは吏部付の官吏からはじまり、ゆくゆくは吏部尚書、参政、中書令と出世していってもよい。おそらく、公蘭は玄徳がそういう典型的な華々しい未来をこの部下に期待しているとかん違いしているだろう。


 だが本心を言えば、他の部の侍郎でもかまわない。侍郎で生涯を終えてもいい。それでも官吏としては十分な成功だ。


 玄徳が本当に望むことはただ一つ、侑生自身が己のためだけの幸せを得て、己のために生きることだった。心を安らかに保ち、欲しい物を欲しいと言える、そういう人生を与えてやりたいのだ。


(それがどうしてこうなったのか……)


 昨夜、そのたった一夜にして、侑生の運命は大きく変わろうとしている。


 八年前のあの夏の一夜のように、侑生は今も荒ぶる神にもてあそばれている。まるで指先一つで簡単に人を潰せる神が、侑生の人生そのものを己の遊戯の駒に選んだかのように……。


(侑生にとっては……この世に神など存在しないのかもしれない)


 唐突にそう思った。


 玄徳はこの初春に侑生にこうも言っている。


『私は君の神でもなんでもないんだよ』


 人は誰かのために生きることはできないし、誰かを神のように崇め縋ることで生きることもできない。玄徳は今もそう信じていて、自分のことを過度に崇拝する侑生の生き方は危険だと常々思っていた。


 もしも人を神のように崇めれば、その人が間違いを犯したらどうするのか。

 もしもただ一人のために生きたら、その人がいなくなったらどうするのか。


 他人の言動で自分の信念を曲げてはいけない。

 他人に自分の生き死にを委ねてはいけない。


(だが神がこの世にいないと思うほどに絶望していて、それでも神という存在がこの世にいない不条理に耐えられない状況にあったなら……)


 玄徳には神が本当に存在するのかどうかは分かっていない。


 何かしらの神を信仰しているわけでもない。


 ただ、神という概念があることで、人にとって重要なこと、たとえば生きることとか愛とか、哲学的な面を考えやすくなるとは思っている。


 玄徳にとっての神とは、この世にありえない存在の総称である。絶対とか完璧とか、理想とか幻とか、奇跡とか不変とか。そういったことだ。そして、神とはこの世を操作する者のことを表すとも思っている。ただの人間にはどうしようもないこと、たとえば天候とか運命とかいったことだ。


 だがもしも侑生が、神のような存在はこの世にはいないと感じているのであれば――。


(……ああ、そうか。侑生はすでに己一人の力で生きることを選んでいたのか)


 それに気づくと、紐解くように侑生の心が掴めていく。


(だからこそ自分が信じられる私を神に定めたということか……)


 それはつまり、侑生は玄徳の懸念など不要だということで、官吏としての日々において、すでに己を信じて生きてきたということである。


 玄徳の中に珍しく迷いが生じた。


 官吏となってからの侑生の姿が思い返されていく。


(自分を信じられるからといって人は幸せにはなれないのか……?)


 それはこれまで玄徳が培ってきた己の哲学とは相反する結論だった。


 わずかな気の乱れを、忠実に侑生が感じ取ったようだ。


 心配そうに眉をひそめた侑生に、玄徳は、この話を始めてしまった己の責任を痛感した。だがまた、こうなったら自分も侑生を全面的に信じるべきだと覚悟した。


「……だがね、もしも侑生が珪己と婚姻したとなると」


 話が再開されたことで、侑生が律儀に聞く体勢に戻った。それを確認し、語りながら、玄徳はこの部下の見えない未来を想うしかなかった。


「侑生は今後、芯国のみならず皇帝陛下の不信を買うことになるかもしれない。そうなると、君の官吏としての立場は非常に苦しくなるように思うんだ。それはおそらく吏部侍郎を務めることをも難しくさせる……と思う」

 

 つい苦しげな表情になってしまい、鏡に映るがごとく、侑生までもが眉をひそめた。それにあわてて、玄徳は急いで言葉を継いでいった。

 

「私の部下でいる間は君のことは私が護るよ。たとえ枢密副使から除名されるようなことがあったとしても、官吏としての君のことは私が護る」


 それは言い換えれば、中書省の官吏となってしまえばもう玄徳にもどうすることもできなくなるという通告だった。


「……でももう、これは私が頭で考えてどうこうすることではないように思っている。侑生、君はどうしたい? 君がどうしたいと思うのか、それを聞かせてほしいんだ」


 いつのまにか侑生は瞳を閉じていた。そしてじっと玄徳の言葉に耳を澄ませていた。


「……玄徳様」

「なんだい?」

「……このような見目となった私は珪己殿にふさわしいでしょうか」


 侑生の疑問は人として当然思いつくものだった。だがそれに玄徳は猛った。


「何を言うんだ! 君は自分の価値がどこにあるかをまだ分かっていないのかっ!」


 玄徳の迫力に、ひそかに泣き続けていた隼平の方がびくりと震えた。


「姿かたちで人の価値が決まるなら、もうとっくに私は君を無理やりにでも楊家に取り込んでいるよ。だけど私はもう君に伝えたよ? 人の価値がどこにあるかということを。血縁に似ただけの容姿や肉体が君の貴ぶべき唯一の価値なのか? 本当に君はそう思っているのかい?」


 そう語る玄徳は、ようやくこの部下の真実を理解できたばかりだった。


 侑生は自分を信じている。

 だが自分の価値は何一つ分かっていないのだ。


 むやみに信じるだけではだめなのだ。

 信じたいものを信じるだけではだめなのだ。


「……いいえ、いいえ」


 侑生が頭を振った。


「玄徳様がおっしゃっていたこと、よく覚えております。玄徳様が私に語ってくださったこと、よく覚えております……」


 これまで努めて冷静にふるまっていた侑生の瞳に涙があらわれた。


「……ですが、このような私で本当によいのですか?」


 このような私――とは。


 八年前に大罪を犯した私。

 弱い心を不特定多数の女人と関わることで満たしていた私。

 恋に不器用な私。

 美貌を失ってしまった私。

 官吏であり続けることすら難しい状況に陥りかけている私。


 ――何もかもが、恐ろしいくらいに珪己と侑生を引き離す反力のごとく作用している。


 だが、涙に濡れた侑生の瞳は、それとは別のことを望んでいた。


(たとえ無様でも間抜けでもこの愛を――)


 それに玄徳が涙をこらえてほほ笑んでみせた。


「君が決めるんだ……。君の人生、君が選ぶんだよ……」


(それが自分を信じるという本当の意味なんだよ……)




 ややあって侑生が答えた。


「では、私は――」

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