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5.重ねた罪に

 実はずっと気がかりなことが隼平しゅんぺいにはあった。


 隼平の上司である侑生ゆうせいがいまだに寺に姿を現さないのである。


 昨夜の様子からして、最低限の用事さえ済ませれば、侑生は飛ぶようにこの寺へとやって来るだろう、そう予測していた。夜だろうが雨が降っていようが、かまうことなくやってくるだろう、そう思っていたのだ。


 だが日の出とともに隼平が寺に戻ったとき、そこに侑生の姿はなかった。ずっと起きていた仁威じんいいわく、やはり侑生は寺に来ていないという。それが不可解だった。


 そして珪己けいきが目覚め、三人でゆったりと朝餉をとり、茶を飲み干し、それでも姿を見せない自分の上司にさすがの隼平も確信した。


じん、ちょっとこっち来て」


 隼平は廊下に仁威を連れ出して、二人きりしかいないというのにこっそりと耳打ちをした。


「俺、ちょっと侑生の家に行ってくるわ」


 小さな声の中にひそむわずかな不安を察し、仁威の顔つきが武官らしい真面目なものになった。


「何かあったのか」

「……うん、なんか嫌な予感がする。だからちゃちゃっと行ってこの目で確かめてくるわ。仁は今日はこのままここで珪己ちゃんの警護をしててくれる?」


 それに一寸迷うように視線を動かした仁威だったが、次の瞬間にはこくりと頷いた。


「ああ、分かった。ここは俺一人で大丈夫だから、隼平は自分の責務を果たしてきてくれ」

「じゃあ行ってくる。……あ、それとありがとう」


「なにが?」と仁威が問うと、隼平は「名前で呼んでくれてうれしい」とにかっと笑った。


 その笑顔に、仁威はやや安堵し、つられて笑ってしまった。


 そして隼平は再度寺を出立した。





 昨日もたずねたばかりの李家りけに隼平が到着すると、屋敷を囲む塀に沿って大勢の武官が立ち並んでいた。その物々しさに隼平の胸がぎゅっと締めつけられた。昨日芯国人が押し入ったのは楊家ようけのほうで、李家はなんの関係もないはずなのに……。


 と、そこで隼平は自分の浅はかさを察し、瞬時に己の至らなさを心底呪った。


 侑生は珪己を連れ戻すため、芯国の大使館に侵入したではないか。


 大使館から脱出した後、ちょう温忠おんちゅうはとある宿坊に、楊珪己は袁仁威とともに紫苑寺に隠した。だが、たった一人、同じように厳重に隠匿すべき人物がいることを忘れていた――。


 さあっと血の気が引いた。


 昨夜のうちに李家の警備を強化しておくべきだったのだ。だが隼平はそれをしなかった。その結果、何が起こったのか――。


 自分の顔を知る武官らの間を通り抜け、李家の中へと入ると、あきらかに屋敷の中は騒然としていた。昨日とは様子がまったく異なる。多くの家人が手持無沙汰に、だが仕事にもならないようで、一か所に集まりおろおろとしている。そのうちの一人が隼平のことを覚えており、「旦那様が大変なことに!」と訴えてきた。


 隼平は家人に案内させ、まっすぐに侑生の自室へと向かった。


 戸を開けるや、寝台を取り囲む二人の男が一斉に隼平の方を振り向いた。同僚のこう良季りょうき、それに長官のよう玄徳げんとくまでもがいる。が、揃った面子に驚くよりも先に、隼平の視界に寝台に横たわる人物の姿が鮮烈に飛び込んできた。


 脱力した肢体よりも、その顔の半分を覆う布にまず驚愕した。白く大きな布が隠す顔の半分、それだけの大きな面積に対して、布を染める赤茶けた血の色が広範囲にわたっている。額から頰を横断して耳のほうまで、大きな切傷を負っているがゆえだ。


「侑生っ!」


 隼兵は足をもつれさせながら寝台に駆け寄った。そして掛布の上に置かれていた侑生の手をとった。閉めきった室内は湿度が高く汗ばんでしまいそうなくらいなのに、その手は冷水に浸していたかのようにひやりとした。


「騒ぐな。侑生が起きる」


 良季が常のように低い声で隼平をたしなめたが、逆に隼平はその良季に向かって必死の形相で振り仰いだ。


「なんだよこれ、一体なんだよこれっ……!」

「……私は大丈夫だ」


 はっとして声の方に振り向くと、侑生はうっすらとその目を開けていた。布に隠されていないただ一つの瞳が、半分ほど開いて隼平を見上げている。


 隼平はぎゅっと侑生の手を握りしめた。自分のこの熱のこもった分厚い手であれば、侑生を温め癒すことができるのではないかと信じて……。


 そういう部下の真摯な気持ちは侑生にも伝わり、侑生はもう一度ゆっくりと同じことを言った。


「隼平、私は大丈夫だよ」

「ごめん……ごめんよ……」

「何を謝るんだ」

「俺が馬鹿だった。考えが足りなかった。いっつも良季にも言われていたのに。もっとちゃんと考えろって言われてたのに。なのに俺、俺……」

「隼平のせいではないよ」


 この上司がそう言うだろうことは分かっている。だけど隼平には納得することなどできるわけがなかった。それでは隼平は救われないのだ。いや、救われたいなどと思うことすらおこがましい。なぜなら自分は大罪を犯したのだから。こうして上司が襲われたのは自分の思慮不足によるものだから……。


 こんなときだというのに、隼平は唐突に悟ってしまった。


(ああ、だから侑生はいつも……)


 八年前の罪を背負うことだけを生きる糧として、自らの幸福や喜びを封印してきた侑生のことが、こんなときだというのに理解できてしまった。


 本当に重い罪を犯したとき、人は救われたいとは思わなくなるのだ。……責められたほうがどれだけましで楽か。


 だが、誰からも責められないとしたら。


 その罪をあがなうためには、自分自身で罰を定めるしかないではないか。


 そして罪が大きいからこそ、己自身で定めた罰は重くなるのだ。


 たとえ一生をかけても償いきれない罰を背負うほか……なくなる。


「本当に隼平のせいじゃない。これはどうしようもないことだったんだ」


 繰り返す侑生に、だが隼平は頭を振った。気づけば涙がぼろぼろとこぼれていた。そんな隼平の肩を、良季が何も言わずにそっと抱いた。


 良季こそ、この残虐な行為が実施された同時刻に李家にいた人物だった。それゆえ、侑生の傷ついた姿を見た瞬間から、耐えることなく己の行動の至らなさを悔いていたのである。


 芯国の王子と侑生を二人きりにして様子見していたのは良季だ。この上司の行動を止めることができたのに、止めなかったのは良季だ。最悪の事態を想定せず、ぼんやりと離れの室にいただけだった。いや、それ以前に、芯国人が李家を訪れた時点で彼らの身柄を確保するよう警備の者に指示しておくべきだった。侑生がなんと言おうとそうするべきだったのだ。国と国の関係、利益よりも、己の上司の身の安全と正義をこそ護るべきだったのだ。それが枢密院の官吏の責務であり、李侑生の部下としての務めだったのだ……。


 こうしていると、より一層の責めを受けるべきだというかのように、故郷での悪夢が思い出されていった。隼平と二人、湖を前に並び悲しみに打ちひしがれたあの日のことが思い出される。恩人の呉坊を失い泣き続けた隼平。その隼平に、己の母の罪を打ち明けられなかったのは良季だ。


 そして今の隼平は、あのときの良季のようだった。


 今こうして大罪に震える隼平と、さらなる罪を背負うこととなった良季と――。


(生きるということは際限なく罪を重ねることなのだろうか……)

(だとしたら……人は幸せを失いつつ死へと向かっていくしかないのだろうか……)

(私はいい、私はいいんだ。だが隼平は……侑生は……)


 しゃくりあげた隼平の肩を、良季は強く引き寄せ、肩にその頭を乗せた。

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