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4.捧げたりない罰

「……本当にそれでよかったのですか」


 龍崇りゅうすうは重臣の一人にして枢密使すうみつしであるよう玄徳げんとくにそう訊ねられると弱々しくも哀しげに笑った。


「では他にどうすればよかった」


 それに玄徳は何も返すことができなかった。


 今日は休日であるが、玄徳は今、武殿にいる。自身の執務室で、昨夜のようにこの皇帝の異母弟に謁見している。まだ夜も明けきらない時分、龍崇からの急な招へいにより、とるものもとわず入城したのである。


 室にやってきた龍崇は、まるで何夜も寝ていないかのように憔悴していた。何かしらの過酷な任務ゆえのことか、それとも昨夜の話の続き――玄徳の娘である珪己けいきを皇帝の妃候補として後宮に入れる提案――のことかと思案していると、龍崇はその驚くべき事実を語りだしたのであった。


 芯国の王子が珪己を求めて深夜に龍崇をたずねてきた、と。


 それに対して、「皇族の妃候補の一人だから」と断りを入れた、と。


 そこへ「すでに俺が抱いた」と、芯国の王子が珪己への無体を暴露してきたことも――。


 その場に居合わせていない玄徳ですら、これには眉唾ものの話である可能性を感じ取った。だがこれに龍崇は迷わず答えた。それはつい先ほど彼の異母兄であり皇帝である英龍に伝えたこととほとんど同じで、こうだ。


『妃候補とは言ったが、天子門正の官吏と婚約済というのは事実で、皇族への輿入れの可能性は実はほとんどない。だからやはり楊珪己からは手を引いてもらうしかない』


 これにイムルは当然のごとく激怒した。話が違うと。一体どれが本当でどれが嘘なのかはっきりしろと詰め寄ってきた。


 龍崇はそれに、「本当は私の妃にしたいと願っていたのだ。だからどうにか規則を覆したいと一人粘っていただけのことでしかない」と、最大の嘘をついて事を収めたのだった。


 玄徳はそこまで説明を聞き、娘のことに一抹の不安があるだろうに「黒太子にご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありません」と丁重に謝罪した。


 だが、玄徳には言わなかったが、昨夜の話には続きがある。


 この後、龍崇自身の口から、意図せず呪詛の言葉が漏れだしたのである。


「あの娘を穢したというそなたのこと……私はけっして許さないぞ……」


 唸るように言葉を吐き出しつつ、龍崇は自分がこの数回しか会ったことのない異国人に対して明瞭な殺意を抱いていることに気づいた。


 これまでも、生きるか死ぬかという瀬戸際に陥ったことは幾度もある。命を保つことができなくなる瀬戸際まで深く絶望したことも、直接的にこの命を狙われたことも数知れない。敬愛する異母兄を侮蔑されたと思っただけではらわたが煮えくり返ることも、今では日常茶飯事だ。


 だが、龍崇はこれまで自分以外の誰かを傷つけたいとも殺めたいとも思ったことはなかった。


 なのに昨夜、あの異国人を前にして、龍崇の心の奥底にある開かずの箱が開かれたかのようだった。


 ――憎い。


 憎い憎い憎い。


 ……憎い!


(こいつさえいなければ英は幸せになれるというのに……!)

(もう少しで英は幸せになれたというのに……!)


 だがその開かずの箱の隅のほう、目立たないくらいに小さな異物があった。


 その異物一つだけが、イムルの発言に小躍りして喜んだのである。


(これで英は楊珪己を妃にできなくなったぞ)

(これで英だけが幸せになることはないぞ)


(英には私がいればそれでいいのだ)

(楊珪己などいなくてもいいのだ)


(英は私のものだ。私のものだ――)


 自分の中にあった醜悪な心に気づいてしまい、気づかされてしまい――それゆえ龍崇は今すぐにでもイムルをこの手で絞め殺してやりたくなったのである。


 英龍に新たな妃を用意する件は、龍崇が自発的に始めたことだ。乗り気のしない英龍に、説き伏せ、無理やりその気にさせていったのは龍崇だ。だがその話が現実味を帯び、英龍と珪己の間に確かな恋の新芽が見えるようになると……すべてを投げ出したくなってしまう自分に龍崇は以前から気づいていたのである。


 少女のことを自分も気に入っているからなのだろう。ずっとそう思っていた。だが龍崇にとって、恋心というのは人生を彩る色の一つという認識しかなかった。そして龍崇は、人が生きるということは「途方もなく長い真っ白な紙の上に己の実績を刻むこと」だと考えていた。そこに一つの色が欠けることがあろうとも、本人次第で、他の色を用いて、素晴らしい絵を描くことができるはずだと信じていた。


 だから自分の人生には恋の色はいらない。


 だから楊珪己のこともいらない。


 恋かどうかも分からず、龍崇は理屈でもってこの心の惑いを適当に扱ってきた。


 だがこうして心の蓋を開けてみれば――ためらいの素は恋などではなかった。


 元より自分には恋などできるわけがない、それは分かっていた。分かっていて、なのに、「自分もやはり人間なのだな」と見当違いの解釈をしてしまっていた。


(やはり私は恋などしていなかったんだ)

(だから私は英龍を……)


 この強い思慕の原因は家族愛ゆえのものなのか、それとも依存によるものなのか。新たな理由を探して、龍崇の頭の中は今もぐちゃぐちゃになっている。


 だが一つはっきりとしていることがある。


(――これで英は私だけのものだ)


 なんて自分は醜いのだろう。そう龍崇は思った。


 独占欲のあまり英龍の幸せを願えなくなっている自分は――おそろしく醜い。


 そしてその醜さを突きつけてきた芯国人のことが、殺してやりたいほどに憎いのだ。


 だが龍崇はイムルの前でその殺人願望を自制した。実行すればどうなるのかは火を見るよりも明らかだったからだ。……これ以上人としての心を失いたくはなかった。英龍に恥じない弟として、皇族としての己だけでも最低限保ちたかった。その唯一であり最後の願いのためだけに、龍崇はそれを実行しなかったのである。


 龍崇の鬼気迫る表情は真実の感情によるもので、それゆえイムルはそれ以上暴れることをやめ、供の者を連れて宮城を去っていった。


 そして龍崇は朝餉の席で、英龍に人生最大で最悪の嘘をついた。


 そしてさらに龍崇は玄徳を相手に別の嘘を重ねていった。


「陛下は楊珪己に親しみを感じておられていて、そのような女人は即位されて十年、初めてでな。それで私の独断で楊珪己を正妃にできればと動いていただけなのだ。だが一度陛下に上奏したこの件、取り下げるには理由がいるし、芯国の王子が手籠めにしたなどという与太話が露見するのも、この開国直後の今はよろしくない。それで楊枢密使から頂戴していたあの申請書を利用させてもらった。陛下は楊珪己が妃候補から除名されることについては快く了承されたよ」


 嘘を重ねることで、龍崇の胸の奥には幾層もの闇が積まれていくようであった。ただただ苦しい。


(……だがこの苦しみこそが己が受けるべき罰だ)


 身も心も英龍に捧げたつもりでいたくせに、すべてを捧げきっていなかった罪がここにある。


「ですがあれは正式に受理してもらおうと思って作成したものではありません」

「もちろん分かっている。皇族に刃向かってでも娘と部下を護ろうとしたそなたの心意気をあらわしたかったのだろう。よく分かっている。だが事態はすでに進んでいる。なあ、楊枢密使。この件、李副使と楊珪己に受諾するようはたらきかけてくれないか」


 皇族の提案は、言葉の調子によらず、一官吏にとっては至上の命令となる。それは枢密使という高位の玄徳にとっても同じことである。が、玄徳は常のように自分自身の信念と心に従うことを選んだ。


「事情はよく分かりました。皇帝陛下に偽りを述べたことへの黒太子のお悩みは当然理解できますし、そのような物を作成した私にも落ち度はあります。ですが、当人たちの覚悟なしの婚姻は不幸の元となるだけだと、そう私は思っております。ですから、黒太子から聞いた事情は伏せて、二人に婚姻する意志があるかどうか、それだけを私のほうから訊いてみます」


 そう答えることはたずねる前から分かっていたことであるが、龍崇は「よくよく頼んだぞ」とさらに念入りに命じた。少女に恋する李侑生はいいとしても、楊珪己の方が納得するかどうか。


 だが以前、あの少女には、高位の者の婚姻の心構えを説いてある。愛すべき人を愛すること、それが高位にある者の婚姻なのだ、と。


 異国人に穢されたかもしれない、初心で高貴で、しかも武芸者である娘を受け入れるような男など、この国にはそうそういない。それは常識人である玄徳も分かっているはずだ。その娘をなぜか愛してくれている稀有な男が李侑生である。しかも彼は天子門正であり、この国の逸材ともいうべき男だ。侑生を逃せば、おそらく珪己は一生を独身でいることになるだろう。高位の家の娘にとって、それは非常に恥ずべきことなのである。


 龍崇は己の恥ずべき部分の多くをこの一官吏に暴露した。その事実に玄徳の人としての心が揺れているだろうことも、当の龍崇は分かっている。分かっていて暴露したのだ。もはや利用できるものはなんでも利用しなくては、この窮地を脱することはできない。一人娘の身に最悪の出来事が起こっているやもしれぬ玄徳に最初から言葉を飾ることなく説明したのも、そうせざるを得ない状況に陥っているからだ。


 どうにかして李侑生と楊珪己を婚姻させなくてはならない。


 それが龍崇の新たな悲願となっていた。

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