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2.つまりはそういうことだった

 今、齢七十近い老剣士は、彼の孫ほどの異国の青年にやすやすと組み敷かれている。浩托こうたくはそれを別の異国人に羽交い絞めにされた状態で眺めていることしかできずにいた。


 屈強な男の腕は丸太のようで、その腕の中にいる浩托は赤子のように何もできない。いや、手足の自由はまったくなく指も咥えられない状態なのだから、赤子のほうがよほどましだ。


 この場で唯一変わらないものがある。それは外から聞こえる雨の激しさだ。地上のもの全てを叩き壊すかのような豪雨の襲撃は、この時期、ここ開陽にしては珍しかった。しかし、それほどの悪天候だというのに、道場内の者にとっては雨音など乱雑に演奏される雑音程度の現象となりつつある。


 三人の異国人がこの道場に現れてから、天候以外のすべてのことが急展開している。


 二人、構えをとり向かい合ってから勝負が開始されるまで、どれだけの時を要したのか。混乱状態にある浩托はもう分からなくなってしまった。その瞬間――二人のうちどちらが先に動いたのか、それすらも浩托は覚えていない。いや、こちらも「よく分からなかった」というのが正直なところだろう。


 雨音に埋もれるかのように音もなくどちらかが動いた、そのように思う。それに後れをとることなくもう一方も動いた……のだろう。それが引き金となり勝負が始まり――そしてそれは一瞬で終わった。


 気づけば、浩托の師匠であるてい古亥こがいは異国の青年に組み敷かれていた。


 這いつくばる古亥の背を青年が膝で乗り制していた。


 さらに青年は古亥の右腕の関節をも制していた。片手で手首を握り、もう一方の手で肘を押さえていた。その垂直に固定された腕をぐっと肩の方へ押されてしまうと、関節が決まり、どんな猛者でも立ち上がることすらできなくなるのだ。


 片頬を床にこすりつけ首をひねった状態にいる古亥の表情は、浩托のいる側からよく見える。その目は闘争心を宿しぎらぎらと光っているが、苦しい表情からも、古亥が劣勢に陥ったことは明らかだった。


 対する青年の方、動きを見せた瞬間は、確かに真剣なまなざしで古亥との戦いに挑んでいた。それは武芸者としての正しい表情だった。しかし今は元のからかうような笑みを浮かべて古亥を見下ろしている。そこにはこの老剣士への畏敬の念など一切なかった。敗者を見るにしても、その蔑み一色の視線は無礼としか言いようがない。


 ふっと青年が笑った。


「おいぼれよ。これで本望か」


 次の瞬間、ぼきり、と、にぶい音が道場に響き渡った。


「……うわあああっ!」


 叫んだのは――浩托だった。


 浩托の目の前、拘束されている古亥の右腕があってはならない方向に動いてしまっている。いや、腕が自発的にその方向に動くことなどありはしない。その青年がやったのだ。


 古亥の右腕が折られた。


 弟子が悲鳴をあげる中、当の本人は痛みにうめき声一つあげず耐えている。食いしばる歯には力がこめられているが、声をもらすまいと必死で耐えている。


 青年は今もなお古亥の右腕を掴んでいる。折ったことで古亥の意志どおりに動くことのかなわなくなったその腕を、次に青年は両手でぎりぎりとねじり始めた。見るからに痛そうな拷問に近いその攻めは、おそらく、心のままに実行しているだけのことなのだろう。もはや勝負はついているというのに、相手をなぶるためだけに腕をねじっているのだ。青年は心底楽しそうな様子だ。うきうきと、興味本位で古亥の限界を見定めようとしている。


 絶え間ない責め苦に、やがて古亥の口からつうっと鮮血が伝った。


 それでも古亥はただ一つの声ももらさなかった。


 まるでそれだけが己の誇りを守る最後の砦であるかのように――。


 だから浩托は叫び続けた。師匠の代わりのように叫び続けた。何を言っているのか自分でも分からない。それでも叫ばずにはいられなかった。叫ぶことしかできなかった。


 青年はそんな彼らを面白がるかのように、その手にさらに力をこめていった。



 *



「うわっ、今日はついてないなあ」


 ぶつぶつと文句を言いながら雨の中を走っているのはよう珪己けいきである。固く踏みしめられた道は水はけが悪く、こんなひどい雨の日はあっという間にいたるところに大きな水たまりができてしまう。最初はそれらを避けながら走っていたが、やがて面倒になり今は威勢よくその上を走り抜けている。もうくつ(下半身に巻くスカートのようなもの)の裾もびしょ濡れなのだから構うことはない。雨のための何の道具も持たず素の格好でいる今、珪己の全身はずぶ濡れになっていた。間違って湖に落ちた幼少のころのような無残ないでたちとなっている。


(急いで帰らないと……!)


 珪己は今夜からしばらく宮城内に身を寄せることになっていた。皇族の青年二人の指示によるものだ。急なことで、次はいつ街に来ることができるかすらはっきりしていない。だから今日は楽院――楽器の奏法を習う場――に行き、琵琶の師匠であるちょう龍顕りゅうけんに会い、しばし不在となる旨報告を済ませてきた。春燕しゅんえんに借りたままの装飾品を楽院経由で返却する手続きも済ませてきた。今夜の出立を前にして、珪己はいつになく多忙だった。


 それでも今日、その残るわずかな時間を利用して、最後に街中まで足を伸ばしたのは――。


 今、駆ける珪己がその胸にしっかりと抱きしめているのは酒瓶である。鄭古亥がもっとも好む酒だ。剣の師匠である古亥に今日会えるかどうかは分からない。おそらく会えないだろう、そう珪己は予想している。師匠は相当のものぐさだからだ。だからせめてもと、こうして贈り物を買いにでかけた。珪己にとっての古亥とは、たとえものぐさな師匠であろうとも、やはり貴ぶべき人なのであった。まだ幼かった自分に武芸を教えてくれたのは古亥なのだから。


 珪己はそのまま一目散に自家の隣にある道場へと向かった。一度着替えをしに家に戻るという選択肢もあったが、このような豪雨の中、濡れる用事をすませてから帰宅したいと考えたのは自然なことだった。


 だが――。


 もしもこのときまっすぐ帰宅していれば、楊珪己の運命もまた変わっていただろう。


 このとき、屋敷内のすべての家人が奥の一室に押し込められ、縛られ、さるぐつわをされていた。一歩足を踏み入れれば、動く人の気配がしないことに、武芸者の端くれであるこの少女が気づかないわけがなかった。そうすれば、おそらくは慎重な捜索の末にあわれな家人らを自ら発見したことだろう。そして事の次第を聞けば、一人で道場へと向かうことなどなかったかもしれない。


 だがこの日、夏の訪れを予兆させる豪雨が何の前触れもなく開陽を襲った。だから珪己は自家に寄らなかった。せめてあと一日雨が降るのが遅ければ、いや、せめて雨が例年並みの強さであれば――。


 だが運命とはこういうものなのかもしれない。その日は未曾有の豪雨となり、珪己は道場にまっすぐに向かった。そしてなんら警戒することなくその扉を開いた。


 つまりはそういうことだった。

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