3.不吉な未来を告げる者
この日の早朝、皇帝・趙英龍はしとしとと降る小雨の中、秘密裏に屋外に待機させていた侍従を供にして、後宮から東宮――自身が住まう宮――へと戻った。こうして明け方に後宮から東宮へと戻るのは初めてのことだった。
昨夜は一睡もしていない。寺と宮城を秘密裏に行き来するのは、非常に骨の折れる、神経を使う行為だった。だが気分は晴れやかだった。そしてそれと同じ位、新たな重責をひしひしと感じている。
戻るや、いつものように十人前はあると思われる豪勢な朝餉に向かい合った。そのうちの半人前も普段はとらないのだが、今朝はいくらでも腹に入りそうで、手近なものから手当たり次第に口に入れていく。何を食べてもおいしく、それもまた嬉しい。
だがここで気を引き締める。油断してはいけない。
英龍は昨夜、楊珪己を抱いた。それはつまり、楊珪己の一生を引き受ける義務があるということだ。湖国では、皇帝が女を手中に収めるということはそういうことだ。十国時代以前のように、欲のおもむままに一夜限りで女を食い捨てるような真似など、この国の皇帝はしない。
今日、まだ夜も深い時分、英龍はよく眠る珪己を残して一人寺を後にした。離れがたい思いを押し殺して、そのふっくらとした頬や唇にもう一度触れたいという欲をこらえて、英龍は雨の降る中、宮城へと戻ってきたのである。それはとても寂しく辛いことだった。先ほどまで愛する者と二人、確かに温もりを分かち合っていたというのに、高い壁に囲まれた宮城へと戻らねばならない己の宿命に――。
早急に楊珪己を後宮に入れたい。少女を安心させたいし、末永く共に暮らしたい。もう一度、いや、もっと抱きたい。愛を語り合いたい。そのどれもが英龍の素直な気持ちだった。
後宮に入れるには妃にしなくてはならないが、どの程度の位に据えるべきだろうか。頰を膨らませ咀嚼する英龍の思考はすでにそちら方面にまで進んでいる。枢密使の娘であるから貴妃(側妃の最上級の位)としてもおかしくはないだろう。だが古参であり愛娘の母である胡麗よりも上位とするのは短慮かもしれない。しばらくは低位に据えて、まずは後宮に慣れてもらってもいいのかもしれない。
(崇であればさっさと正妃にしろとでも言いそうだな)
異母弟の言動が想像できて、ふっと顔がほころんだ。
だが昨夜、楊珪己はひどく怯えていた。あのひなびた寺で、暗闇の中、赤く燃える炭火に浮かびあがって見えた少女は、英龍が戸を開けたのにも気づかず儚げに涙を流していた。剣女らしからぬ様子で、普通の少女のごとく、ただ哀しみに身を任せていた。よほどあの男が恐ろしいのだろう。
横暴な芯国人にはこれ以上何もさせてはならない。少女を護ると誓ったのだから。とすれば、やはり低位に付けるのがよさそうだ。侍従や女官を急がせれば、皇帝の勅旨一つで今夜にでも後宮に入れることがかなうからだ。
(そうだ。そうしよう)
決断するとより一層食欲が増してきた。休まず箸と口を動かしていると、そこに侍従が近づいてきて「黒太子がおなりですがいかがしましょうか」と尋ねてきた。
断る理由などなく、通すように伝えた。
やがて戸が開かれてその人物があらわれたことを気配で感じとり、笑みを浮かべて英龍は顔をあげた。
が、すぐにその笑みは消えた。
「どうした。何かあったか」
だが龍崇は顔色悪く、その目を机の上に並ぶ皿の数々に向けている。英龍のほうを見ることができない、そういう顔をしていた。
「昨夜は寝ていないのか?」
遠回りする英龍の問いに、龍崇が不器用にうなずいた。同じ徹夜をした兄弟だというのに、二人の様子には天と地ほどの差がある。
その様子に英龍は箸を置いた。
「皆の者、しばし退出しておれ」
指示に従い、侍従らは頭を垂れながら室から出て行った。彼らにも龍崇の様子が並々ならないものであることは察しがついている。
二人きりとなったところで、英龍は目の前にいまだ残る大皿の盛り付けの鮮やかさになぜか意識をそがれた。先ほどまではその彩りと華やかさは英龍の心に見事に同調していた。なのに今は醜怪に思え、不調和さだけを感じる。
それは英龍のこれまでの皇帝として生きてきたがゆえの本能的な予知だったのかもしれない。いまだ何も語らず動こうとしない龍崇は、不吉な未来を伝えにここへと来たことが明白だった。
英龍は茶で口をすすぐと、その手を机の上で組んだ。
今日は休日であり、時間は十分にある。
だが龍崇が語りだすまでに必要とする時間こそ、未来がどの程度不吉かを定量的にはかる指標となることも分かっている。
英龍は待った。窓の向こう、細かな砂がこぼれるような、さらさらと雨が落ちる音が聞こえる。時たま、ぱらっと軽快な音が鳴る。それらを聞きながら、英龍はその時が来るのを忍耐強く待った。
龍崇が口を開きかけた。それに英龍が気づき、すると二人の目がかち合った。龍崇にとっては敬愛する唯一の人物のその瞳、だが今はその瞳こそが龍崇を追いつめたのであった。
龍崇は口を再度閉ざすや、いきなりその場に腰を折り、床に両手をついた。
異母弟によるその大げさな所作に、英龍が驚き腰を上げかけたところで、龍崇はさらに深々と頭を下げた。床にひれ伏しながら、震える声で龍崇が言った。
「……申し訳ありません。楊珪己について英にお知らせしなくてはならないことが……あります」
突然出されたその名に、英龍は条件反射のように笑みを浮かべた。
「楊珪己がどうした」
声調がやや上がったことで英龍の内面を感じ取ったはずが、龍崇は逆により一層声を震わせた。
「あの者は……枢密副使の李侑生という者と婚姻することになっており……、妃として後宮に入れることは……叶わなくなりました」
龍崇の態度以上に、その発言が英龍には奇天烈に思えた。驚きも、すぎるものだと何も感じられない。なので英龍はあらためて椅子に腰をおろした。
「何を突然言う」
馬鹿なことを、と一笑に付そうとしたところで、床に頭をつけたまま龍崇が繰り返した。
「……本当に申し訳ありません。ですが、そう決められていたのです……」
その龍崇の横、口を塞ぐかのように、突如、皿が一枚飛んだ。花鳥の描かれた薄い皿は、床にぶつかった衝撃で乾いた音をたてて跳ねるように割れた。
投げたのは英龍だ。
今、英龍は再度立ち上がり、明らかな憤怒をもって龍崇を見下ろしている。
「馬鹿なことを言うなっ!!」
その怒りの大きさが少女への恋慕の大きさを如実にあらわしている。龍崇もそれを感じとっているようであった。だが、目が合った瞬間、馬鹿の一つ覚えのように再度平伏するだけだった。
英龍はこの異母弟に怒りを見せたことは一度もない。
そんな自分に対して龍崇はなんの開き直りもしようとはしない。
だからこの黒衣の異母弟が冗談を言っているわけではないのだと、英龍にもはっきりと分かってしまった。
分かってしまうと、英龍の頭に一気に血が昇りつめた。
怒りと興奮でめまいがし、英龍は机に手を置いてなんとか姿勢を保ちつつ、それでも気力をふりしぼって問うた。
「……決めたとはどういうことだ」
「一か月前に楊枢密使のほうから二人の婚姻を願う申請書が出されており……それが顕叔父の独断によって承認されていたのです」
「な、なんだと……?」
「宴で顕叔父が言っていたことはこのことだったのだと、昨晩、英が……陛下が後宮にわたってから私も知ったのです。華殿をあずかる身でありながら、陛下の妃候補として不適切な女人を推薦してしまったこと、大罪に値することで……」
「不適切だと?!」
かぶせるように、腹の底から発せられた皇帝の怒声は室の外、戸の前で待機する侍従らにまで聞こえた。皆が震え、幾人かは耐え切れずに細い声をあげるほど、恐ろしい力に満ちた声だった。普段温厚な彼がここまでの怒りを周囲に示すのは、皇帝となって十年、初めてのことだった。
二人きりの室内では、今も龍崇は頭を床にこすりつけており、英龍は目の前が真っ赤に染まるほどの怒りで我を忘れる寸前となっている。
いくつもの事象が英龍の怒りを再現なく高みに押し上げていく。
「あの者が不適切だなどと言うお前の口こそが罪だろうっ!!」
叱咤され、龍崇がひれ伏したままその体を縮めた。
「……申し訳ありません。ですが楊珪己はすでにその男と褥を共にしている仲であると……。そのような女人は妃として後宮に入れるわけにはいかないのです」
その瞬間、緋色に染まる英龍の世界が、一転してすべての色を失った。
「そ……それは……まことか」
絞り出すような声は、英龍自身にも分かってしまうほどに、泣きたくなるような悲痛さがあった。
英龍も当然知っている。皇帝の妃となる者は生娘でなくてはならないことを。生娘とそうでない者に抱き心地の違いがあることなど知らなくても、その定型文句だけはよく知っていた。
それに龍崇がさらに頭を伏せた。これ以上はないというほど伏せて、最後に英龍がもっとも聞きたくなかった一言を発した。
「……はい」




