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2.屈辱的な敗北

 珪己けいきが室を出てすぐ先にある廊下を曲がったとき、向かいの室からもちょうど一人の青年が出てくるのが見えた。


 顔を見合わせ、お互いに気づく。


えん隊長、おはようございます」


 故意に快活に張り上げてみせた珪己の声は、ございます、の語尾まで言い切る前に物理的に遮られた。敏捷な身のこなしで接近した仁威じんいの手によって塞がれたからである。


「ここでは俺の位を語るな」


 正面から抱かれるような体勢で頭の上から見下ろす仁威に、珪己は言葉を出せず、ただこくこくとうなずいてみせた。それを確認し、それでようやく仁威はその手に込める力を緩めた。


 そこで仁威の方がはっとした顔をした。両手を離すや珪己から十分な距離をとり、居心地が悪そうにその目をあさっての方向へとやる。


「……よく寝たか?」


 他に言うべきことが思いつかず適当に述べたそれに、珪己は不自然な間をおいて「はいよく寝ました!」とさらなる大声で返答した。部下のおおげさな反応に、仁威がなんとかその目を部下に戻すと、当の珪己はやや頬を赤らめて、仁威とは別の方に目を泳がせていた。


 普段の仁威であればきっと気がついた。


 楊珪己には何か隠していることがある、と。


 だが仁威の方も昨日の今日でいまだ心が定まっていなかった。この部下を見ると、昨夜のように馬鹿みたいに野蛮な欲が湧いてきてどうしようもないのだ。


 昨夜はちょっと素足が見えただけで、同じ部屋にいることが耐えられないほどに理性を滅多打ちにされた。それは近衛軍第一隊隊長を拝命する仁威にとっては屈辱ともいえる結末だった。敗北、その一言に尽きる。しかも相手は武人でも武器を有する敵でもない、自分自身のふらちな感情なのだから……。


 もしもあのまま室から逃げ出さず我慢を続けていたら、きっと半刻もせずに気が狂っていただろう。


 体術の稽古においては、長い期間をなんの問題もなくこの部下と接することができていたはずなのに……。


 なのに先ほど、ちょっとこの腕に抱えて手の平に唇が触れただけで、仁威の内で静まっていた熱が再燃してしまった。まだ手の平には珪己の唇の感触が残っている。ふっくらとしていて、吸い付くような、湿りを帯びたその感触が……。


 一つ一つの事象をすべて整理することで、納得ずくでこの穢れた欲をうち消したい。なのに一晩かけても駄目だった。今もちょっと思い出しただけで仁威の体はかあっと熱くなってしまう。考えるという行為が、仁威を負の迷路に否応なく連れ戻していくようだった。


(……もうこいつには近づかないようにするしかないな)


 情けないが他に解決手段もない。そういう年頃であれば、同じような同性に相談することもできるし、周りも大目に見てくれるだろう。だが仁威は近衛軍第一隊隊長を拝する男であり、齢二十四という実年齢を考慮しなくても、どこからどう見ても立派な成人男性であり……ここまで間抜けな悩みを他人に打ち明ける度胸など、あるわけもなく。


 だから今朝、仁威は珪己をよく見ることをあきらめた。それは警護対象を観察する義務を放棄したといってもよい失態であるのだが、大きな悩みの前に、仁威は気づかぬうちに屈してしまったのである。


 珪己の方も、昨夜の秘め事を抱えていては、常のように無遠慮かつ素直な態度で仁威に接することができずにいた。


 と、仁威が出てきた部屋の戸がまた開かれ、そこからのっそりと別の青年が現れた。枢密院事の隼平しゅんぺいである。隼平は珪己を見るや、武官である仁威顔負けの素早さで珪己に近づき、その手を取って「珪己ちゃん、大丈夫?」と顔を覗き込んできた。


「は、はい。大丈夫です」


 ぐっと突き出された大きな顔の迫力に、珪己はつい背をそらして距離をとった。だが隼平は珪己の戸惑いにも気づかず、さらにそのふくよかな顔を近づけてきた。


「本当? 目が赤いけどちゃんと寝れた?」

「はい、よく寝ました。本当に大丈夫です。もうすっかり元気です」


 健康を装う珪己を疑い深く眺める隼平は、目を下にやり、珪己の胸元に隠されている痕をつい想像してしまった。首のあたりにあった痕は元々そんなにはなく、こうしてきっちり襟を合わせていれば、胸元の方の痕は周囲に見られる恐れもなさそうである。ざっと見て首筋に二つのやや紫がかった痕はある。だが、明日には、虫に刺された程度のちょっとしたものと見えなくもなさそうだ。


 顔を上げた隼平には、もうどこにも過剰に心配する表情はなかった。


「お腹空いたでしょ。あっちに朝餉を用意してもらったから行こうか」

「はい。……ところでここはどこなのでしょうか」

「ここは寺だけど……。え? じんはまだ説明していなかったの?」


 責めるような視線に、仁威は黙っている。


「仁?」


 仁威がそう呼ばれるのを聞くのは初めてで、珪己は首をかしげた。


「うん、そう。ここでは仁は俺の友達、珪己ちゃんは仁の妹っていう設定だから」


 まさかその設定がこの寺の主である桃林とうりんにすでに看破されているとも知らず、隼平は無邪気に口元に人差し指をあてた。


「ここにいる間は珪己ちゃんは仁のことを兄様って呼ぶんだよ」

「わ、分かりました。兄様ですね」


 目を白黒させる珪己に、だが仁威は苦虫を噛んだかのような顔で何も言わなかった。





 三人が広間に入ると、机の上にはすでに三人分の膳が並べられてあった。もう一人の深夜の客人――趙英龍――は、桃林の部屋に一筆残してその姿を消している。青年の正体を知る仁威も、何やら感じている桃林も、英龍の来訪の事実は己の中に隠している。


 一杯の雑炊と漬物数枚だけのささやかなものだが、三人はそれをじっくりと味わった。昨日の体験を経た三人は、こうして落ち着いた気持ちで食事をとれること、それだけのことがひどく尊いと分かるのだ。


 仁威は、そして隼平は、珪己が膳にのるすべてのものを胃袋におさめていく様にまた安堵した。食欲があるということは、心理的な面ではだいぶ落ち着いてきているはずだ。


 隼平は明け方この寺に戻ってきた。そのとき仁威から聞かされていた。珪己はあの芯国人に何もされていないはずだ、と。今こうしてすべてをたいらげた少女を見ると、それは事実のように思える。つまり、男どもは勝手にその最悪の事象を推測してあわてていただけのこと。


 だから隼平も仁威も、そのことについて珪己にあらためて訊かなかった。わざわざ確認する必要もないし、あえて不愉快な推測を聞かせることもない。


 腹がふくれて一息ついたところで、桃林が茶道具を持ってあらわれた。珪己が立ち上がり「お世話になっております」と頭を下げかけたところで、桃林がたおやかな笑みでそれを制した。


「もう大丈夫ですか?」

「はい、すっかり元気です」


 隼平のときと同じように返事をすると、桃林がちらりとその細めた目を仁威にやった。


「昨夜、あなたの兄君はとても心配していらしたのですよ」


 その一言に、もらいうけたばかりの茶を口に含みかけていた仁威がむせた。


「心配のあまり寝つけないと、兄君は昨夜、一睡もせず起きておられました」


 飄々と語る桃林をくやしそうな面持ちで見ながらも、仁威は何も言えないでいる。その様子に隼平はぴんときたようだ。だが珪己はそこまで気が回らなかった。立ったままの体を仁威の方に向けるや、与えられた設定を守らんと勢いよく頭を下げた。


「兄様、心配かけてすみませんでした!」


 下げている間、桃林は満面の笑みを浮かべ、隼平はからかいの目で仁威を眺め、そして仁威はこの場をどうにか耐えようとぎゅっと眉をひそめていた。

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