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1.月のような人

 目覚めると、もう朝だった。


 外からは細やかな雨音だけが聞こえる。昨夜のひどい雨はようやくおさまり、例年通りの静かな雨季がこの街に訪れたようだ。これからひと月もたたずに、次は照りつける太陽のまぶしい夏本番となるだろう。


 昨夜共にいたあの人、この国の皇帝であるちょう英龍えいりゅうはいなくなってしまった。それをよう珪己けいきは、寝台に横たわったまま、首だけを動かして確認した。いつ消えたのかまったく気がつかなかった。よほど疲れていたのだろう、ぐっすりと深く寝入っていたようだ。


 いつもよりも重く感じる体を起こすと、もう一つの寝台にも誰もいなかった。えん仁威じんいはあれから一度も室に戻ってきていないようだ。


 室の中央に置かれた火鉢には、まだわずかながらも燃える炭があった。そのおかげか、室内は温もりに満ちており、珪己が昨日着ていた着衣もすべて、身に着けられる程度には乾いていた。それらを纏いつつ、珪己は昨日のことをあらためて反芻していった。


 ここがどこかは分かっていない。きちんと説明する前に仁威はいなくなってしまった。だが、ここがどこかなどというのは些細な疑問だ。


 昨日は激動の一日だった。芯国人に道場が襲撃され、珪己は誘拐されてしまったのだから。だが袁仁威――珪己の武官としての上司――と、侑生ゆうせい――父・玄徳の部下――、それになぜかちょう温忠おんちゅう――官吏補としての珪己の同僚――までが助けに来てくれ、事なきを得たのであった。


 そこからの記憶はない。気づいたらここにいて、仁威が肌を合わせて温めてくれていたのである。


 その後、仁威が室から消えてから、珪己はあらがえない運命について考えこんでしまい、絶望感を味わいながら涙を流していた。このままでは遅かれ早かれ、芯国の王子・イムルの元に連れていかれるだろう……と。


 するとそこになぜか皇帝・趙英龍があらわれた。城内に住まう尊き人が、なぜかこの部屋、珪己の前にあらわれたのである。そしていくつか言葉を交わしているうちに、珪己はたまらなくなって英龍に抱きついてしまった。芯国には行きたくない、ここにいたい、助けてほしい――そう懇願してしまった。


 その願いを英龍は聞き届けた。


 そして――。


『余が必ずそなたを救うから、だから余のことを信じてくれ』


『そなたのことは余が護ろう』


 英龍はそう言い、そして珪己を抱いた。


 その行為は荒れ狂う波の中、小舟にしがみついているかのような命懸けのものだった。それに珪己は必死でついていくしかなかった。ちょっと小耳にしたような、小説や劇で表現されるような、優しさと甘さで満ちた行為とはまったく違った。いや、英龍はそのように努めてくれたのかもしれない。だが受けとめる側の珪己にそれを感じるゆとりがなかったというのが正しいところだろう。


 なぜその行為が自分を救うことになるのかは分からなかったし、考える余裕もなかった。しかし英龍のその瞳にも声音にも、珪己の知る英龍そのものの誠実の色しかなかった。そうしなくてはいけないと信じるからこその、必死で、性急で、気迫に満ちた表情もあった。


 だから珪己はそれをされてもいいと思った。イムルの時とは違い、恐怖心はまったく起こらなかった。そして、それをすることで珪己を救えると英龍が信じているのだから――もう拒む理由はどこにもなかった。皇帝がその行為を決断したことの重大さも、漠然とではあるが分かっている。


 そして、こうして経験した今になって、珪己は己の思い違いにようやく気づいたのである。


(私、あの王子には何もされていなかったんだ……)


 それにひどくほっとした。


 それでも心に残る不安を解消したくて、思わず自分以外には誰もいない室内を見渡していた。窓は閉めきられ、炭火以外には灯りのない部屋は、お世辞にも広いとはいえない。空間を意識すると珪己の体は震えた。幼少時の一夜の記憶は、この年齢になっても珪己を時折苦しめる。狭く暗いところは苦手なのだ。


 立ち上がり窓を開けると、うすぼんやりと外は明るくなっていた。空は雲で覆われていて太陽は直視できないが、確かに今は朝なのだろう。


 朝なんだ、と再認識し、するとこわばっていた体から力が抜けていった。


 そしておもむろにその美しい例えを思いついた。


(……なんだか陛下って月のような方だわ)


 思い返すと、英龍とは夜にしか会ったことがない。だが珪己が窮地に陥った夜に限って、英龍はその姿を見せるのであった。


 すべては偶然か、それとも必然なのか。


 だが思いついてしまえばその比喩は間違いのないものだと確信できる。


 昼間はその身を輝かせず、自身の存在を誇ることのない月。


 だけど世界が暗闇に包まれると、淡く美しい光であたりを包み込んでくれる月。


 ――まさに英龍は月のような人だ。


(……だとしたら、次に会えるのもきっと夜なんだろうな)


 今度会ったときには伝えよう、そう珪己は思った。


(月のような方ですね、と伝えたら、どんな顔をするだろう?)


 そのときのことを想像すると、珪己の心は温かくなった。

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