5.軋む心
西宮内の自室において、趙龍崇は夜のふけるのもかまわずに一人自問自答していた。寝台にも入らず、椅子に座り、机の上の料紙をじっと眺めている。その脇には、細く短い蝋燭一本だけが灯されている。
ばらばらと軒を打つ雨音は、集中するにはちょうどいい塩梅の雑音だ。雨はようやく例年並みの、この季節特有の細雨に移り変わろうとしている。あれほど雷鳴を轟かせていた天もすっかり静まりかえっている。
今夜、楊玄徳に厳しく責められたことで、龍崇は己の考えていた未来予想図をあらためて考えていた。課題はもちろん、敬愛する異母兄であり皇帝・趙英龍の新たな妃候補についてだ。
英龍本人が楊珪己を欲しいと願っている。
そして現皇帝にとって妃を増やすこと、子を増やすことは非常に重要なことである。
この二つだけでも、龍崇は楊珪己をどうにかして後宮に入れなくてはならない。
そう思って今日まで事をすすめてきたのだが――。
机の上には武殿にて玄徳に手渡された料紙がある。それは上位の家の者が子の婚姻許可を得るための申請書だった。枢密使の娘である楊珪己と、枢密副使の李侑生の婚姻を願う書状である。
その書状には、申請者である楊玄徳の名と、申請日である一か月前の日付が記載されている。まだ墨も乾いていなかったその書状を、今宵、玄徳は堂々と龍崇に手渡してきた。
楊珪己のすべてを見聞きしているわけではないが、それでも龍崇は、彼女が侑生に愛を抱いているとは思えなかった。それどころか、英龍と珪己の間にこそ、愛は芽生えつつあるように思っている。
(楊玄徳は部下可愛さに娘の意志をないがしろにしていないか……?)
その疑問は、だが玄徳自身の今夜の発言と一致しない。
『枢密使を拝命したのも、その方が理想の世界に近づきやすくなると思ったからです。そして、その世界には、私の娘やこの部下もいなくてはならないのです』
玄徳は高潔であろうとするばかりに、娘と部下を同列にとらえてしまっているのかもしれない。だがやはり、侑生の意志ばかりを重んじてしまうような不器用な人物とも思えない。
と、玄徳の続く発言が思い出された。
『もちろん黒太子も皇帝陛下も……誰一人欠けても駄目なのです』
(ああ……そうか)
気づけば龍崇は、胸の奥から深く長いため息をついていた。
(楊珪己がもっとも慕う男は英なのだと、それを楊玄徳に伝えればいいのだ。そして英もまた楊珪己を望んでいて、二人は愛をもって添い遂げるであろうと、そう説けばいいだけのことか……)
けっしてこの国、皇家の繁栄のために一人娘を奪おうとしているのではなくて、あくまで二人の愛を成就させるためのことと説明すれば、玄徳を納得させることができるはずだ。
何も嘘偽りを言っているわけでも誇張しているわけでもない。すべては事実だ。侑生の恋慕のほうをこそ、珪己が疎んじ懐疑的に見ていたことは知っている。無理やり侑生と珪己を結びつけるほうがよほど不自然であり、玄徳の考えそうな正しい夫婦像とは異なるだろう。
ようやく光が見えて、龍崇は肩の力を抜くや、ほっと息を吐いた。
(日が昇るとともに楊玄徳を宮城へ招へいし、あらためて説明しよう)
(それですべては決着するはずだ)
むくり、と、龍崇の胸の内に黒くわだかまる感情が目覚め、起きようとする気配を感じた。だが龍崇は即座にその否定すべき感情を殺し再度眠りにつかせた。英龍のため、皇家のためには、その感情は生まれるべきではない。
室内が急に広く暗く感じた。
広いのは当然、皇族に与えられた室だからだ。そして暗いのは当然、今が真夜中であり、雨雲に遮られ星月の姿が見えないからだ。ただ一つ、ためらいがちに、愛におびえる初心な少年のように、一本の細い蝋燭による灯りだけが室内で揺らめいている。少し開けている窓の、ちょっとの隙間風だけでも消えてしまいそうなくらい、その炎は頼りない。
龍崇は蝋燭にひとさし指をそっと近づけた。近づけただけで、赤子のような炎は飛び上がり跳ねた。だが動かない指に炎は暴れるのをやめ、やがて龍崇の指をじりじりと飲み込んでいった。
じじじ、と音が鳴る。
熱によって皮膚があぶられる。
このように小さくても、炎はやはり炎だ。触れればこの身は溶け、滅びるほどの力を有する炎なのだ。そのことに龍崇の心は軋んだ。
だからこそ、次の瞬間、龍崇はその炎を握りつぶしていた。
一瞬にして室内が闇色に染められる。
やがてゆっくりと手を離すと、蝋燭の芯が焦げる香りが鼻をついた。
炎とはいえ、これだけ小さければ、こうも簡単に死に絶える。
大きな存在の前には、小さきものの価値はないに等しい――。
その逆らえない自然の摂理に半ば茫然としていると、戸の向こう側に人の気配がした。
「……どうした」
皇族である自分を表に出して声を掛けると、それはやはり己の侍従だった。
「お休みのところ申し訳ありません」
戸の向こうから声だけが届く。
「芯国の大使副官が急ぎ黒太子に謁見したいとのこと。尋常ならざる様子でしたので、夜分遅いとはいえ取次ぐべきと考え、御声掛けに参りました」
「尋常ならざる?」
そう言いながら、龍崇はさっと髪をなでつけ、立ち上がった。それだけのことで、水ぶくれのできた指がひりつき痛んだ。
寝るための身支度をしていなかったので、そのまま戸を開けると、その侍従は昼日中のままの主人のいでたちに内心驚きつつ平服した。
「何と言えばいいのか……目は血走り、平常心はなく、衣には血しぶきがついておりました。非常に危険な状態のようにも思えましたが、このまま追い返すのもまた危険に思え、今は近衛軍の武官を同行させ客間に待たせております」
「うむ。それでいい。では案内しろ」
部下の英断を褒め、龍崇は即座に動いた。侍従はもう一度頭を垂れると、早足で龍崇を客人のいる室へと案内した。
室に入るや、龍崇はこの賢い部下の表現の方には一部不足があったことを悟った。
そこにいた芯国の副官――イムルは、龍崇が来るや、深夜に突然訪問した無礼を詫びることなく、その鬼のような顔を向けてきたのである。
ぎらぎらとこちらを睨むイムルに、先日この青年のことを『獣と同じだ』と英龍や珪己に語った自分の表現にも足りないところがあったと龍崇は気づいた。
真の獣であれば、勝ち目のない場で逃げる道があれば間違いなく逃走する。だがイムルは今もなお闘い続けるためにここへ来たようであった。何があったのかは知らないが、明らかにイムルは何らかの闘いを経て、敗北を感じ、そしてここにいる。ここ、皇族のための住まいへ――。
龍崇を認めるや、イムルはそこに湖国側の武官や侍従がいるにも関わらず怒鳴った。
「俺に楊珪己を引き渡せ……!」
それは湖国の言葉だった。
怒声とともに激しい殺気がびりびりと伝わってくる。
皇帝の異母弟として認められてこの方、これほど確かな殺気を受けたことはない。気色ばみ反射的に腰にさげる長剣に手をかけた武官の面々に、だが龍崇は小さく首を振ってその行動を制した。イムルの供の軟弱そうな二人の男もさすがに顔色が悪くなっている。他国の皇族にこのような無礼をはたらき、無事に宮城を出られるとは思っていないだろう。
龍崇を先導してきた侍従が一喝した。
「こちらにおわす方は皇帝の弟君であるぞ! 芯国の臣でしかないお前が、頭が高いであろう!」
するとイムルが噛みつくように反撃してきた。
「俺は王子だ! 芯国の正統な王子、現国王の息子だ!」
王子と聞き、龍崇の侍従が息を飲んだ。いまだ長剣の柄を握っていた武官らの手からは力が抜け、龍崇とその侍従、そしてイムルを交互に見やった。
龍崇はこの突如開示された高位に対して腹に力を込めた。
イムルの様子と、イムルに仕える男共の様子からして、その発言は事実とみたほうがよいことが分かる。イムルが真に王子であるならば、国同士の定量化しにくい力関係を抜きにして、龍崇はイムルを権力のみでひれ伏せさせるわけにはいかない。そう、イムルの暴挙はこの国の法にのっとれば捕縛するに十分値するが、国交をひらいたばかりの相手国の王子を一方的にぞんざいに扱うわけにはいかなかいのだ。
思慮のために黙る龍崇に、イムルが牙をむき出すように迫った。
「お前は楊珪己のことを知っているんだろう。さっさと俺に渡せ」
「あの娘は渡さない、そう言ったはずだ」
言葉を選んで発言する龍崇に対し、イムルは単純なほどにかあっと頭に血を昇らせた。
「お前らはおかしい! なぜあんなちっぽけなただの娘をそうまでして庇う? 俺は王子なんだぞ、王子に対してなぜそのような態度がとれる!」
お前ら、と複数人で語られ、龍崇はイムルの着衣にちらばる今も鮮やかな血の痕の数々――先ほど血を浴びたばかりなことが明白なその証拠――の理由だけは理解した。イムルは誰かと楊珪己を奪い合い、あまつさえその者を斬ったのだ。
その相手としてすぐに思いついたのは、少女の父である楊玄徳だった。だが、玄徳の顔を思い描いたことで、数刻前に武殿で玄徳と彼の部下に謁見した事実を思い出した。
(……ということは、あのときにはすでに何かが起こっていたということか?)
その何かのために二人は楊珪己を後宮へ入れる日を延期するべく画策した。
その何かがきっかけであの部下は楊珪己の後宮入りの裏にある真実を玄徳に吐露した。
――だから玄徳は今夜あの時間にあの書状を龍崇に渡した。
一つずつ、無関係に思える事実を繋げることで、龍崇は目の前の猛る自称王子に言うべきことを見つけた。
「……あの娘はとある皇族に嫁ぐ者の候補として挙げられている。宴の際には官吏の一人に嫁ぐ予定であると説明したが、これは我が国の極秘事項であったため、そなたを惑わせてしまったようだ。これまでの非礼や暴挙については不問にいたすゆえ、あの娘からは手をひけ」
するとイムルはその目を大きく見開き、鼻で笑った。
「はあ? 何を言っているんだ?」
その無礼千万な態度に、龍崇に長年よく仕える侍従がわなわなと頬を震わせた。いくら王子であるとはいえ、神に等しいこの国の皇族に対して、頭の足りない幼児のごとき扱いをするなどもはや異常をきしているとしか思えない。
それは龍崇も同感だった。もはや会話で通じる相手ではないのかもしれない、と、武力による制圧にうつる算段についても考えだしたところで、イムルが臆面もなくその顔――勝利を確信した表情を向けてきた。
「湖国では皇族に嫁ぐのは生娘とさだめられているんだろう? だが残念だったな、もうあいつは俺のものだ」
その発言は、龍崇を雷のごとき威力で打ちのめした。




