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剣女列伝 少女篇5 ~ただ君を乞う~  作者: アンリ
第八章(後半開始)
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4.なぜお前が

 上司に命じられたとおり、こう良季りょうきは離れの一室にて控えていた。李家りけの家人からは訪問客の特徴を聞き出しており、だから今、自分の上司が最悪の敵と向かい合っていることは分かっている。だが侑生は闘いの場に良季を連れていくことを拒んだ。その理由もまた、語られずとも分かっている。これ以上この件に巻き込まれる被害者を増やしたくない、そう侑生は考えているのだろう。


 侑生はこの件を公にしたくないと願っている。それはおそらくイムルも同じだ。派手な行動をとっているが、よう珪己けいきを確実にものにしたければ、自らの非合法な行動は開示されないに越したことはないはずで、だからイムルの訪問には自分一人で対応すべき、そう侑生は考えたのだ。そうでなくても、こうして多くの官吏に己の所業が暴露されていけば、追い詰められたイムルがいつ何時大きな報復をしでかすか分からない。手負いの獣ほど手に負えないものはないのだ。


 イムルは今は楊珪己を得ることに執心しているようだが、もしもその願いを捨ててしまえば、芯国の大使館に無断で侵入し、あまつさえ王子である己を傷つけたとして、侑生のみならず、珪己の救出に尽力した武官、えん仁威じんいをも堂々と処刑することができる。非をなじられれば、最悪、湖国側は彼の怒りを鎮めるための生贄として楊珪己を提供せざるを得なくなるだろう。


 侑生はできうるかぎりのことをして旧知である仁威と愛する珪己を救いたいと思っている。それと同じくらい、上司であるよう玄徳げんとくや部下である高良季に害を及ぼしたくないと思っている。


 そういう上司の願いは語られずとも分かってしまい、だから良季はこうしてじっと一人、この部屋にいるのである。だが座っていても落ち着かず、壁に体を預けて、意味もなく窓の向こうを眺めていた。まだ勢いが衰えない雨の中、塀の向こうでは配置された武官が今も厳重に警備にあたっているはずだ。侑生は彼らにも、「李家に訪れる客人は何人であれ刺激してはならない。いかに不審であっても捕えるようなことは一切するな」、そう事前に釘を刺していた。きっとその頃から様々なことを予測していたのだろう。


 どのくらいの時間がたったのか。


 突如、「きゃああっ」と、甲高い叫び声が廊下の方から発せられるのが聞こえた。いつの間にか足元にやっていた視線をはっとあげると、窓の外、雨で煙る景色の中に、門の方へと足早に去っていく三人の男の姿をとらえた。先を歩くのはまだ年若く背の高い青年、おそらく例の客人だ。


 耳に残る悲鳴が波のように、良季の元に耐えがたい不安を押し寄せてきた。寄せて、寄せて、寄せて……。心が不安一つで満ちるのに時間はかからず、良季は室を出るや、一目散に侑生のいる客間へと向かった。


 騒動の元である室内はひどくざわついていた。数人の家人が椅子に座る侑生を密にぐるりと取り囲んでいる。家人らに隠れて侑生の姿は見えないが、人と人との間から侑生の沓の先は見え、確かにそこにいることが分かった。


「大丈夫ですか?!」

「すぐに医官がやって来ますから。それまでの辛抱ですよ!」


 口々に声を掛ける家人らの動きは俊敏だ。だが誰もが動揺している。どの顔も一様に青白い。それに気づいた瞬間、色が映るように良季の顔も白く変化した。体いっぱいに満ちた不安は、喉のすぐ手前にまでせり上がってきている。


 その時、一人の家人が「もっと布を持ってきます」と言いながら戸の近くに立つ良季のほうを振り返った。その手には血によって赤く変色した手巾があった。そしてその家人が離れた場所に空間が生まれたことで、立ち尽くしていた良季にもようやく侑生の姿が見えた。


 顔の半分が血で染まっている。


 それだけではない、額から頬にかけて、流れる血の源である裂傷がはっきりとある。


 それは見るからに大きく深い傷だった。押さえきれない端の方から血がたらたらと吹き出ているし、やや乱れた髪の先、耳元、首筋、衣と、至るところに血が付着していた。侑生の前にある机の上にも大きな血の池ができていた。


 あまりにひどい状況に、良季の心臓が大きく跳ねた。心に満ちていた不安の海が、その一跳ねで囲いをたやすく破壊した。常日頃から自制していた感情が乱暴なまでに荒れ狂い出し――それが良季の我慢の限界だった。


「侑生っ……!」


 まろぶように良季が駆け寄ると、そこでようやく侑生は良季に気づいたようで、その瞳を向けて見るからに表情を和らげた。


「ああ、良季か」

「お、お前……!」


 絶句した良季とは正反対に、侑生は顔から血を流しながらも訥々と語った。


「すまないがこれでは私はしばらくは寺には行けそうもないよ。隼平しゅんぺいにもそう伝えておいてくれないか」

「何を言っているんだ……!」


 ぶるぶると震えていた良季は、侑生の言葉を聞くや、とうとう膝から崩れ落ちた。それでもなんとか侑生の膝にすがり、この上司の裳を両手で掴んだ。


「今はそんなことを言っている場合ではないだろう! なぜこんなことになったんだ、なぜ……!」


 震える唇で、それ以上は言葉にならなかった。これ以上現実を直視することに耐え切れず、良季は侑生の膝に顔を伏せた。握りしめる侑生の裳に、己の涙がじわじわと沁みていくのを止めることもできず、良季はその身を怒りと悲しみで震わせることしかできなかった。


「なぜこんなことになったんだ、なぜお前が……!」


 小刻みに揺れる良季の背中を、座る侑生はただ黙って見ていた。


 その切れ長の瞳で――ただ一つとなった瞳で。


 イムルによって潰されたもう一方の瞳に、刺すような痛みに、泣くことも苦しむこともなく、残されたその一つだけの瞳で良季を見ていた。


 屋敷中、家人らの悲鳴はいたるところで途切れることを知らない。


 騒ぎを知った清照せいしょうもまた、客室に駆け込むや、顔面を蒼白にし悲痛な叫びをあげた。

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