3.生きることをあきらめたくはない
まっすぐこちらを見返す侑生の瞳は、彼の覚悟、そして覚悟の基となる想いの清らかさを裏付けるようだ。そしてそれは、イムルの願いの基となる利己的な欲、己だけが幸福になりたいという欲とは明らかに違っている……。
突如、イムルの脳内に、楊珪己の叫ぶ声が響き渡った。
『もう私たちは自分で自分を幸せにすることができるのよ?』
『誰かがいなければ幸せになれないなんて、そんな不完全な存在じゃないのよ?!』
今日の夕刻、そう叫びこちらを睨みつけてきた少女の瞳――。怒りに燃えていた瞳の奥には確かに真心があった。それは自分を見返す男、侑生が抱く心と同じものだった。
そのような心を持って対峙された記憶はほとんどない。母はいつも痛むようにイムルを眺め、そのくせ王子としての誇りを持つことを強要してきた。王宮内の他の者は昔も今も、憐れみと蔑みをいっしょくたにした表情でイムルを無遠慮に観察するだけだった。セツカは無邪気に己の信じる道を語るだけだったし、その目はいつも遠いどこかを見ているようだった。温忠はセツカを通してしかイムルを見ようとしなかった。アソヤクは……芯国に戻ってからのイムルを庇護する唯一の重臣ではあったものの、ただの一度もイムルを説くことなく、イムルのやりたいようにさせてきただけであった。
だからこそ、楊珪己こそが心を分かち合うことのできる唯一の人間だと、そうイムルは確信したのだ。だからこそ楊珪己を欲したのだ。だが少女はイムルの考えるさらに先へと進み、一人の人間として立つべきだとイムルを叱咤したのである。
しかしイムルはそれに得心がいっていなかった。人はやはり一人では不完全であって、自分と対を成す者と揃うことで不完全さを補える、そう信じきっていた。
それゆえ、部下によって拘束を解かれてすぐ、楊珪己も張温忠もそれぞれの宅に不在であることを確認するや、残る二人の男のうち顔と名に覚えがある李侑生の屋敷を探しあて、こうして乗り込んできたのである。
だが今目の前にいるこの青年――李侑生は、少女が目指す人物そのもののようだった。
美しい容貌、知性がうかがえる所作、上級官吏の着衣である紫袍を着こなす様は典型的な美丈夫だ。こうして大きな屋敷を構え、まだ年若いというのに、悠々と、恵まれた暮らしを送っていることがうかがえる。
もちろん、王子であるイムルの方が財も権力も有しているし、己の美貌も武芸の腕も最上級のものであると自負している。この男に比べて自分は何もかもが勝っていると知っている。
なのに――心だけは負けている。
こうして屋敷を訪れ、身元が判明していることと地位が危ういことをほのめかしさえすれば、この男は懐柔できると目論んでいた。どうしても首を縦に振らなければ、その指を一本へし折って泣かせてやろう、そうも思っていた。
だがイムルははっきりと悟ってしまった。侑生の持つ高位に傷をつけると脅しただけなのに、もう分かってしまった。この男にはこれ以上何を言っても、何をしても勝つことはできないし、どうやっても己が望むものを引き出すことはできないだろう、と。
だがイムルにとって、ここで負けることとはすわなち死なのである。
苦しみだけがある地獄に住まわされる生とは、死と同じことなのである。
どうにかして幸せを掴みたい、その一心でこれまで生きてきたのだ。その思いの強さは、イムルが生きる最大の目的へとすり替わっている。だがイムルはまだその矛盾に気づいてはいない。
イムルは立ち上がった。
それにも侑生は動じることはなく、イムルの抱える苛立ちの中にくやしさが混じった。
それを振り払うかのように、イムルは片足を勢いよく机に乗せ、同時に向かい合う侑生の胸倉を力任せに掴み引き寄せた。はずみで侑生の前に置いてあった椀が跳ね、放物線を描いて床へと落下した。椀は派手な音を立てて割れ、四方に散った。
それでも侑生は怯えることも避けることもなく、それらすべての事象をただ受け入れた。
その『受け入れた』という心もまた伝わってきて、イムルの中に瞬時にいくつもの感情が芽生えた。
疑問、不愉快、恐れ、怒り、不信、絶望、落胆、喪失、そして……。
生じた様々な感情によってイムルの心は瞬く間に飽和状態に陥った。苦しくて息が詰まり、考えがまとまらない。次の一手、次の言葉が出てこない。戸惑う自分に気づき、イムルは狼狽えた。運命論を理解してから今日この時まで、イムルは自分の行動に迷ったことなどなかったのだ。目的はいつでも同じで、だから迷う理由などなかったのである。
それゆえ、複雑なよどみの中、焦るイムルがとっさに拾い上げた感情は、己によくなじんだ『怒り』だった。
「……だったら話したくなるようにするだけだ」
低く静かに発せられたその声には、間違いなく致死量の毒が溶け込んでいる。
最終宣告だ。
これでもう決着をつけなくてはいけない。
でなくては……自分の身が危険だ。
だが、それにも侑生はただその瞳を閉じただけであった。
その澄ましたような表情は、まるで天界に住まう神が地上の者たちを眺めるかのようで、イムルの内に潜んでいた恐れの感情が今また倍増した。怒りによって見ないようにしていた恐怖が、無視できないほどに存在感を増した。
まるで未知の能力をもった相手と闘っているかのようだ。これが剣や拳を通しての闘いであればいかようにもできるのに、相手は表情もなくただその両目を閉じているだけなのである。
イムルはこれまで罪のない者や無抵抗の相手をなぶったことなどない。
そこまで非人間的ではない。
これまでの生きる道が辛く苦しいものであったのも、ひとえに人間であり続けたいと願うからであって、犬畜生のようなふるまいをしたことは一度もない。確かに、自分の進む道を邪魔する者は容赦なく片付けてきた自覚はある。だが、それは彼らがイムルにとって罪人に等しい存在だったからだ。
自分を死へと追いやろうとする者を、罪人と言わずなんと例えればいい?
人として最低限の幸福を得ようとしているだけの自分に立ちはだかる奴こそ、人間ではない。
だが、目を閉じ座るこの男は、次元の違う世界で気高く生きているかのようだった。畏怖すら感じる高潔さは、穢れや罪悪には無縁に思えた。
(……ならば、この男を打ち据える権利など自分にはないではないか)
しかしその推測は、今のイムルには到底受け入れることなどできなかった。
死に直面したとき、己の命の灯が消えようとするとき、人は人であり続けることが難しくなるのではないか。命とはたった一つしかないもので、それは絶対に失ってはいけないものなのではないか。信念を守るために死を受け入れることなど――到底できやしない。
(……なんのために俺がここまで耐えてきたと思っているんだ)
それはこんなところであきらめて死に絶えるためなんかじゃない。
まだ何一つ完全に満たされたことがないのだ。
(俺は死ぬために生きてきたわけじゃない)
(まだ死にたくない)
(……生きることをあきらめたくはない!)
するとこの冷静さを保つ男のことが心底憎くてたまらなくなった。この男が立ちふさがるせいで、自分の生への道が、幸福への道が閉ざされようとしている、そう思えてならなくなった。
耐え切れないほどの怒りが奥底から湧き上がってくる。業火と呼ぶにふさわしい激しい憤怒にとうとうイムルは我を忘れた。
手をついていた机の上、椀の破片を握るや、それを侑生に向かって光線のごとく素早く振るった。
鋭く尖った先が空を切る。
それでも侑生は動かなかった。
ぱあっと、季節外れの紅梅が一面に咲いたかのように、血しぶきが舞った。




