2.青い毒
「……俺に対してごまかしは利かない。あいつは武人だ。武芸に重きを置いた生活をする者でなければあのような動きができるわけがない。この軟弱な国でそのような男を探そうとすれば武人以外にはいなかろう」
「ですが本当に違うのですよね。なんならお調べくださってもけっこうですよ」
あくまでしらを切ろうとする侑生。
と、イムルの表情がまた変わった。本来のイムルは非常に感情豊かで素直なのだろう、口元をゆがめ、王子らしからぬ腹黒い思惑をあらわにし出した。
「では取引だ」
「取引?」
「その男を見逃してやろう。交換条件として女を俺に引き渡せ。どうだ?」
黙る侑生に、イムルがやや身を乗り出した。机の上にできた小さな水たまりに袖が濡れたがかまうこともしない。
「俺への暴挙が公になって、部下もろとも自分が処罰されるようなことにはなりたくないというのだろう、違うか? 黙っておいてやるよ。代わりに女を俺に渡せ」
それはイムルにしては最大限の譲歩だった。自分に刃向かい、あまつさえ己を打ち負かすという途方もない屈辱を与えた相手をゆるそうというのである。通常では考えられない恩情だった。長いつきあいのあるアソヤクが聞けば、耳を疑い信じないだろう。
だが今のイムルにとってもっとも大切なこと、それは己の誇りを護ることではなく、己の半身を得ることだった。この世に生まれ出でてから今まで、イムルが歩んできた道は放浪のごとく辛いものだった。本当に見つかるかどうかも分からない幸せに向かって、日々、あてもなく歩いてきたのだ。
だがその旅はようやく終わろうとしている。
あと少しだった。
(あと少しで俺は運命と幸福を手中にできる……!)
自らの提案の良さにイムルが活気づいていった。天と地を交互に行き来するように、イムルの感情は容易くあちらからこちらへと変化している。表情にもそれがよく表れている。
その様子を侑生は検分するようにじっと眺めていた。だがしばらくすると膝の上に乗せていた両手を机の上に出して組み、見るからに姿勢を正した。
「それはできません。彼女を渡すことも、あの男を売ることもできません」
完全なる拒絶に、イムルの感情は一気に真逆の方向に振り切れた。こめかみに太い血管が浮き出て、顔面が真っ赤に染まった。
「……どちらもできないなどという理屈が通じるとでも思ってるのかっ!」
だが侑生のほうは今も冷静にイムルに対峙している。
「理屈がどうこうではなく、できないものはできないのです」
「ならばお前はその地位を捨てる覚悟はあるのだな?!」
それでも侑生は、ただその視線をちらとイムルに向けただけだった。
「……そのようなものでよければいくらでも」
切れ長の瞳から放たれた、冷めた視線。
認めた瞬間、イムルの背にぞっとする何かが駆け上がった。これ以上は熱しきれないほどに高まっていた感情も、急速に冷やされ凍てついた。顔色は元に戻り、一転して血の気がひいたかのように白くなった。イムルが感じたそれは、まごうことなき真正の恐怖だった。
このような恐れを感じるのは久しぶりのことだった。しかもそれは武闘において命のやり取りをする際とは異なる種類の恐れだった。
恐怖したことを感知したかのように、イムルの心の奥の方にある開かずの箱がふるりと震えた。震えたことで、箱はゆるゆると開かれていった。これまで思い出さないように堅く閉じていた過去の記憶の箱、それが今、男の視線一つであっけなく開放されてしまった。そしてイムルは、珪己にも語らなかった心もとない時代を思い出していった。
王子という地位に固執して、それだけを生きる理由としてあてもなく彷徨っていた時代。何をしても、何を得ても、誰もが自分の存在を卑下し、正統なる王子の一人だと認めることはなかった――。
どうすれば認めてもらえることができるのか。
王子であるのに尊ばれない自分とは何なのか。
イムルにとって、生きることとは勝つ見込みのない勝負の連続のようなものだった。なのに、それを分かっていながらも、この闘いの舞台から降りることは一度もゆるされなかった。緊迫した日々はイムルの精神を蝕んだが、そこで膝をついて諦めることは死ぬことと思いつめ、こうして今日までやってきたのである。
自分以外の誰もが満ち足りた顔をして暮らしていることにはだいぶ前から気づいていた。城の中だけではない、ただの百姓でも商人でもそうだ。朝日が昇り、風が吹き、蝶が舞い、花が咲く。そんな些細なことに顔をほころばせる人々――。なのにイムルは彼らと同じような喜びを感じとることができないでいる。生きるか死ぬかの世界にいるというのに、この命を繋ぐことと無関係のことになぜ満たされることができるのか、理解できないでいる。
自分だけなのか?
自分のいる世界だけがこんなに緊迫しているのか?
同じ土地に暮らし同じ空気の中で呼吸しているのに、なぜ感じることが違うんだ?
なぜ俺は見下されなくてはいけないんだ。
これ以上見下されるのは……嫌だ。
(俺は王子なんだ――)
イムルの額にじんわりと汗がわいた。
だが負の感情は止まらない。
開放された記憶は留まることを知らず、一度知った恐怖と共にイムルの周りを色濃く包んでいく――。
セツカに諭されてからは、王子としての自分には固執していないつもりでいた。それでも今日まで王子であり続けたのは、ひとえに運命の半身を探し出す手段として最適であったからだ。市井の者では持ちえない財と権力で国内を縦横無尽に探索できたのは、王子としての地位によるところが大きい。
とうとう湖国までやってきて、楊珪己と出会ったことで、運命の半身を見つける旅をこれで終えることができる、イムルはそう確信するに至った。
少女を抱きしめ、口づけ、語り合うことで、やはりこの少女こそが己にとっての特別だと実感している。
目的の人物を見つけたのだから、もう王子である必要などない。二人でいれば、どこへ行っても、何をしても幸せに暮らせるはずなのだ。辛いことの一切ない世界へ飛び立つことができるはずなのだ。
なのに今、一人の男を前にして、「地位など不要」と言ってのけるこの紫袍の男を前にして、イムルは己の覚悟や信心に初めて疑問をもった。
じっとこちらを見つめる切れ長の瞳からは何の感情も読めない。ただ一言、真実を吐露しただけのように、大事など起こっていないかのように、今もこちらを見つめているだけだ。
(なぜお前なんかが俺よりもっ……!)
唐突にその思いがイムルの内に沸いた。
(なぜお前のような苦労知らずの男が俺なんかよりもっ……!)
ぎりっと歯ぎしりをする音が、無言の室内において異様に大きく響いた。
(俺がどれだけ辛い思いをしてこれまで生きてきたと思っているんだ……!)
(お前みたいに何の苦労もせずに高位にあるような男が……!)
イムルは激情をなんとか堪えて、ようやくその一言だけを発した。
「……本当にいいんだな?」
本当にその地位を奪うぞ。
――それでもいいのか?
ぎらつく青の瞳は、人のものとは思えないほど毒々しく変貌している。まるでひとたび噛まれれば即死しかねない毒蛇の牙のように。
だが侑生はその一矢にすら心を乱された様子はない。
「それでけっこうです」




